生涯に一度位は父母を驚かしたいものだと、常次はとらぬ狸の皮算用ばかりしてゐる。

     黄昏

 つゆは娘の甲斐子から三圓の小遣ひを貰つた。甲斐子はきまつたやうに、非常時だから大切に使はなくてはいけませんよと云ふのである。つゆは朝の焚きたての御飯をうんとたべて、娘や女中が掃除をしてゐる間に、臺所で二つ三つ握り飯をつくつた。その握り飯を急いで散紙につゝんで、肩掛けの下へかくして「それでは淺草へお參りして來ますぞな」と云つて戸外へ出て行つた。つゆは家を出ると何かしら吻つとするのである。娘はきげんが惡いとよく小言を云つた。お母さんは、何故佛樣を拜まないのですか、たまには寺へ行きなさい。たまには庭の花の手入れぐらゐはするものですよと云ふのである。つゆは佛樣を拜むことはきらひであつた。長い間連れ添つたつれあひに七年前に死別したのだけれど、死んだ良人が小さい佛壇の中へ來てゐるとは思へなかつたのだ。時々甲斐子が腹をたてながら佛壇を掃除をしてゐるけれど、佛壇の中は娘の云ふやうな、つれあひの魂が來てゐる風にも思へない。朝々茶を淹れて、熱い御飯を佛壇にそなへるのだけれど、それとても、時々、つゆは忘れ勝
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