宮外苑を伊津子はバスの停留所の方ヘ音樂會歸りの人たちにまじつて歩いてゐた。戀と云ふ、もだへのうちにさてはまた、なにごとを思ふともなく爲《す》ともなき、いたづらのすさびの中に經《ふ》とぞいふ‥‥さつきの獨唱がまだ頭の芯にこびりついてゐる。伊津子は外套の襟をたてて歩いてゐたが、夜霧のせゐか、バスの停留場へ來ても、急いで家へ歸りたい氣持がしなかつた。
 夜霧の向ふから、白い馬が飛んで來るやうな、何かしらちらちらしたものが伊津子の眼にみえる。自動車が二臺ほど伊津子の眼の前をすぎて行つた。伊津子はバスに乘つて新宿へ出て行つたけれど、家へは少しもかへりたくなくて、夜更けた新宿の街を歩いた。晨に出發して、夕べにやぶれる徘徊の氣持が、伊津子に嘔吐をもよほさせさうだつた。歩いても歩いても何もない道でありながら、伊津子はたゞ默々と寒い道を歩いてゐた。新宿驛の交番では女の醉つぱらひが、交番の入口に腰をかけて泣いてゐた。人が黒山のやうに交番をのぞいてゐる。伊津子も群集の中に混つてのぞいてみたけれど、もう四十位の女で、紺飛白のうはつぱりを着てきたない手拭で涙を拭いてゐた。群集のまちまちな話をきくと、誰かが出征を
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