歩くのは非常に愉しみであつた。昔は玉羅紗とかアルパカだの、カシミヤだのの、いゝウール地が澤山あつたものだが、この頃は手に取つてみると、ぞつとするやうな寒い手ざはりのウール地ばかりであつた。つゆは洋服を着た男の人形の立つてゐる臺の處へ腰を掛けてしばらく休んでゐた。うつらうつら眠たくなるやうな疲れがきて躯がぐつたりしてゐる。たいへんな人ごみですねえ‥‥誰かがさう云つて、つゆのそばへ來て腰をかけた。つゆはふつと眼をあけてみると、自分と同じぐらゐの汚ないお婆さんが、ねんねこで赤ん坊を背負つて自分のそばへ腰を掛けてゐた。「師走だから、買物で大變ですね」つゆは話相手が出來たので、急に元氣になり、前を通つてゆく人間の品定めなんかをして、二人でぼそぼそしやべつてゐた。おばあさんは、つゆに炙のうまいひとがゐるけれど、炙をすゑてみる氣はないかと尋ねた。つゆは炙をすゑるのは好きであつたので、そのおばあさんの案内で吉原の近くだと云ふ炙をすゑる家へ行つてみた。つゆは、七十五歳で、ほんとうは老人の一人歩きは警察でも注意されてゐるので、外に遊びに出たくても中々甲斐子が出してくれないのであつたけれど、つゆはこのごろ娘の名刺を澤山持つて歩くことにしてゐた。自動車にはねられても、道に迷つても名刺を出しさへすれば人がちやんと案内をしてくれると思つたからである。つゆはどこへ行つても娘の話をした。炙點師の處へ案内してくれるおばあさんにもつゆは甲斐子の名刺を一枚出して、娘は小説を書いてゐますぞなと云ふのである。おばあさんは小説と云ふものを知らないので、たゞ、大きい名刺を貰つて、浪花節語りでもあるのかと思つてゐる樣子である。つゆは腹が空いたので握り飯をたべたかつた。隨分歩いて腰が冷えこんだのか、下腹が痛くてしくしくうづきはじめてゐた。何處かで熱い茶がほしいと思つたので、つゆはおばあさんをさそつて小さいミルクホールへ這入つた。つゆは貧し氣なおばあさんを、妹のやうにふびんに思つたのだ。何かおいしいものを食べさせてやりたいと思つた。「何でも云ひませんか、何でも食べませうや」と云ふと、そのおばあさんは雜煮を食べたいと云つた。つゆは汚れた白いまへだれをしてゐる男に、雜煮を二杯註文して、やがて運ばれて來た雜煮の中の、紅いのの字の模樣のついたかまぼこをおかづにして握り飯をひろげた。つゆは愉しくて仕方がなかつた。自分もこのおば
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