魚の序文
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)云《い》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十三|歳《さい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)洗い※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《ざら》した
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 それだからと云《い》って、僕《ぼく》は彼女《かのじょ》をこましゃくれた女だとは思いたくなかった。
 結婚《けっこん》して何日目かに「いったい、君の年はいくつなの」と訊《き》いてみて愕《おどろ》いた事であったが、二十三|歳《さい》だと云うのに、まだ肩上《かたあ》げをした長閑《のどか》なところがあった。
 ――その頃《ころ》、僕|達《たち》は郊外《こうがい》の墓場の裏に居を定めていたので、初めの程は二人共|妙《みょう》に森閑《しんかん》とした気持ちになって、よく幽霊《ゆうれい》の夢《ゆめ》か何かを見たものだ。
「ねえ、墓場と云うものは案外美しいところなのね」
 朝。彼女は一|坪《つぼ》ばかりの台所で関西風な芋粥《いもがゆ》をつくりながらこんな事を云った。
「結局、墓場は墓場だけのものさ、別に君の云うほどそんなに美しくもないねえ」
「随分《ずいぶん》あなたは白々《しらじら》としたもの云いをする人だ……そんな事云わぬものだわ」
 こうして、背後から彼女の台所姿を見ていると、鼠《ねずみ》のような気がしてならない。だが、彼女は素朴《そぼく》な心から時に、僕にこう云ううた[#「うた」に傍点]をつくって見せる事があった。
[#ここから2字下げ]
帰ってみたら
誰《だれ》も居なかった
ひっそりした障子《しょうじ》を開けると
片脚《かたあし》の鶴《つる》が
一人でくるくる舞《ま》っていた
坐《すわ》るところがないので
私も片脚の鶴と一緒《いっしょ》に
部屋《へや》の中を舞いながら遊ぶのだ。
[#ここで字下げ終わり]
「で、まだ君は心の中が寂《さび》しいとでも云うのかね」
 僕は心の中ではこの詩に感服していながら、ちょっとここのところがこざかしい[#「こざかしい」に傍点]と云えば云える腹立たしさで、彼女をジロリと睨《にら》んだ。
「ううん、墓の中の提灯《ちょうちん》を見ていたら、ふとこんな気持ちになったンですよ。……別に本当の事なンか出やしないわ。だって、こんなの、まるで河のほとり[#「ほとり」に傍点]に立って何か唄《うた》っているようなの……ねえ、その気持ち判《わか》るでしょう」
「判らないねえ、僕はうたよみ[#「うたよみ」に傍点]じゃないから……」
「そう、そうなの……」
 本当を云えば、初め、僕は彼女を愛しているのでも何でもなかったのだ。彼女だって、僕と一緒になるなんぞ夢にも思わなかったろうし、結婚の夜の彼女が、「済まないわ……」と一言|漏《もら》した言葉があった。どんな意味で云ったのか、僕だけの解釈では、僕以外の誰かに、済まなさを感じていたのであろう。――僕は彼女を知る前に、一人の少女を愛していた。骨格が鋭《するど》く、眼《め》は三白眼《さんぱくがん》に近い。名は百合子《ゆりこ》と云った。歩く時は、いつも男の肩に寄り添《そ》っていなければ気が済まないらしく、それがこの少女の魅力《みりょく》でもあった。
「とうとうお菊《きく》さんと結婚なすったンですってね。三吉さんもなかなか隅《すみ》におけない」
 黄昏《たそがれ》の街の途上《とじょう》で会った時、百合子はチラと責めるように僕を視《み》てこう云ったが、歩きながら、例のように百合子は肩をさし寄せて、香料《こうりょう》の匂《にお》いを運んで来る。だが、おかしい事には再会するまでのあの切なさも、ふと行きずりにこうして並《なら》んでみると、夫婦《ふうふ》になってからもなお遠く離《はな》れて歩く菊子の方が、僕には変に新しい魅力となって来ているのに気がつくのであった。
 結婚して苔《こけ》に湧《わ》く水のような愛情を、僕達夫婦は言わず語らず感じあっていたのだが、それでもまだ、長い間の習慣は抜《ぬ》けきらないもので、金が一銭もなくなると、彼女はおかしな風呂敷包《ふろしきづつ》みをつくっては墓場の道を走って行く。で、僕はひょうげ[#「ひょうげ」に傍点]て、まるで下宿屋か何かの女でも呼ぶように「お菊さアん」と窓から呼ぶのだ。すると、白く振《ふ》り返った彼女は、一生懸命《いっしょうけんめい》に笑った顔で、「お使いよオ」と答える。
「お使いなンかいいんだ。帰っておいでよ」
「だって、あンた苺《いちご》を食べたくないの? それを買いに行くの……」
 何か眼の中が熱くなって来て、墓場の上に紅《あか》い粒々《つぶつぶ》がパッと散って行くほど、僕は僕の不甲斐《ふがい》なさを彼女に見せつけられたようだ。で、僕はたまらなくなって素足のまま墓場の道へ走って出た。
「馬鹿《ばか》! 俺《おれ》はそんなにしてまで苺なンぞを食いたかないンだよッ! お帰り、帰ったらいいだろう……」
 彼女は風呂敷包みを、まるでアンパンか何かのように子供らしく背後に隠《かく》して、しぶとく[#「しぶとく」に傍点]立っていた。そのしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]が余計胸の中に来ると、僕は彼女の髪《かみ》をひきつかんで、まるで、泥魚のように、地べたに引きずって帰って来た。
「君が、こんな一人合点《ひとりがてん》をするから、前の男達も君を殴《なぐ》ったのだろう。僕だって、小刀の一ツも投げたくなるよ。――炭俵《すみだわら》に入れられて、一日|揚板《あげいた》の下へ押《お》し込《こ》められた事があったッて君は云っていた事があったが、前の男の気持ちだって、何だか僕にはだんだん解《わか》って来たよ」
 彼女は涙《なみだ》もこぼさないでしおれていた。風呂敷の中からメリンスの鯨帯《くじらおび》と、結婚の時に着ていた胴抜《どうぬ》きの長襦袢《ながじゅばん》が出て来た。
「こんなもの置きに行ったって仕方がないじゃないかッ」
 ふと彼女を視《み》ると、僕の学生時代のモスの兵児帯《へこおび》を探し出して締《し》めているのだ。何だか擽《くすぐ》ったいものが身内を走ったが、僕は故意にシンケンな表情をかまえていた。
「君が腹の満ちた恰好《かっこう》で、一ツのものを夫に与《あた》えるのは、それア昔《むかし》の美談だよ。一ツしかなかったら、二ツに割って食べればいいだろう、何もなかったら、二人で飢《う》えるさ」
 これは、素敵にいい言葉であった。僕は僕自身のこの言葉にひどく英雄的《えいゆうてき》になったが、彼女には、それがどんなにか侘《わび》しく応《こた》えたのであろう。急に、まるで河童《かっぱ》の子のように眼のところまで両手を上げて、しくしく声をたてて泣き始めたのだ。
 この泣き方は実に面白い。まるで、閨《ねや》を共にする男へなんぞの色気《いろけ》は、大嵐《おおあらし》の中へ吹《ふ》き飛ばしたかのように、自分一人で涙を楽しんでいる風なのだ。子供のように、泣きながら泥《どろ》の上を引きずられて来た汚《よご》れた手で、足の裏を時々ガリガリやりながら思い出したようにシャックリをする。そのシャックリの語尾《ごび》はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は止《や》めた方がいいよ、判ったかね」
 僕は窓にぶらさがっている濡《ぬ》れタオルを彼女に取ってやって、一人《ひとり》窓の外の花の咲《さ》いた桐《きり》の梢《こずえ》を見上げた。
 実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの蟹《かに》の穴のような小さな家庭を培《つちか》って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに履歴書《りれきしょ》をまた書きたくなって、硯《すずり》に白湯《さゆ》を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、美濃紙《みのがみ》が薄《うす》く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の紫《むらさき》の花の色まで沁《し》みて写りそうであった。
 もはや、行きつくところまで行った風景でもある。彼女はもう泣く事にも飽《あ》いたのか、五月の冷々《ひえびえ》とした畳《たたみ》の上にうつぶせになって、小さい赤蟻《あかあり》を一|匹《ぴき》一匹指で追っては殺していた。

「ねエ、私、お裁縫《さいほう》の看板でも出したいけれど……」
「へえ、君に裁縫が出来るのかね」
「大した事は出来ないけれど、袴《はかま》もかさね[#「かさね」に傍点]も習ったには習ったんだから……」
「だって君、習った事と商売とは違《ちが》うよ――まア、待っているさ、毎日俺も街へ出掛《でか》けているんだから、何とか方法はあるだろう。――学校を出て、すぐ五六拾円にはなるだろうと思えばただ大学は出たものの[#「大学は出たものの」に傍点]だよ、そうだろう……」
「ええだけど、知った人に縫《ぬ》わしてもらったっていいでしょう……」
「知った人ッて皆《みな》貧乏《びんぼう》じゃないか」
「森本ちぬ子さんはどうでしょうか。あの人は、とても羽振《はぶ》りのいい芸術家のところへお嫁《よめ》にいらっしったッて云う事ですわ」
「馬鹿! 食えなかったら、食えないで仕方がないよ」
 それより、僕は机に向って、何か就職の口はないかと遠い友人に手紙を書いた。今となって職業の好みもなく、また、田舎《いなか》住いでも幸福だと云った意味を長々と展《の》べて。彼女にも安心の行くように音読してさえ聞かせてやった。
「物事は当って砕《くだ》けろさ。俺達だけじゃないよ、こんな生活は山のようにあるんだから恐《おそ》れる事はないだろう」
 二人は、もう畳の上に坐《すわ》って話している事が憂鬱《ゆううつ》になったので、僕は彼女に戸締《とじま》りを命じて帽子《ぼうし》とステッキを持った。彼女は、紅色の鯨帯をくるくると流して自分の腰《こし》に結び始めた。壁《かべ》の小さい柱鏡に疲《つか》れた僕の顔と、頬《ほお》のふくれた彼女の顔が並んだ。僕は沁々《しみじみ》とした気持ちで彼女の抜き衿《えり》を女学生のように詰《つ》めさせてやった。
 戸締りをして戸外へ出ると、二人は云いあわしたように胸を拡《ひろ》げて息をしながら、青麦のそろった畑道《はたみち》を歩いた。秋になると、この道は落葉で判らなくなる道であった。いつか、まだ独身者であった時の百合子との散歩を僕はふと考えたものであったが、僕の後からゆっくり歩いて来ている彼女は、紙雛《かみびな》のように両袖《りょうそで》を胸に合わせて眼を細めて空を見ているではないか。――
「二人位並んで歩けるよ、さあおいで」
 それでも、彼女はまるで隣人《りんじん》同士のように遠慮《えんりょ》してしまって、なかなか歩を揃《そろ》えようとはしなかった。
「いいねえ。ほら雲雀《ひばり》が啼《な》いているよ」
「…………」
「どうしたんだい?」
「私、馬鹿なんでしょうか、風景《けしき》がちっとも眼に這入《はい》らないで、今だに一生懸命で戸締りをしているようなの、私時々体が二ツにも三ツにも別れて勝手な事しているンですよ」
「君が、僕の背中ばかり見ているからさ、さア、先になって行ってごらん、厭《いや》でも美しい景色が見えるから……」
 彼女を先へ歩かせると、今度は僕の方がたまらなかった。赤緒《あかお》の下駄《げた》と云えば、馬糞《ばふん》のようにチビた奴《やつ》をはいている。だが、雑巾《ぞうきん》をよくあててあるらしく古びた割合に木目が透《す》きとおっていた。
「唄でもうたわない?」
「ええ……唱歌なんてもの皆忘れてしまった……こんな時唄う歌なんてむずかしいわねえ」
 僕達は小川《おがわ》の上のやや丘《おか》になった灌木《かんぼく》の下に足を投げ出して二人が知っている「古里」の唄をうたい始めた。
 雲雀が高く上っている。若葉が風にまるでほどけて行くようであった。僕は眠《ねむ》たくなって、ゴロリと横になると、帽子を顔にかぶ
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