せて眼をとじた。瞼《まぶた》の部屋の中は真暗《まっくら》だが、渦《うず》のような七色のものがくるくる舞っている。僕のそばから離れて行ったのか、彼女が柔《やわらか》い草を踏《ふ》んで向うへ遠ざかるのが頭へ響《ひび》いて来た。
「オイ、あんまり遠くに行っちゃア駄目《だめ》だよ」
 帽子の中からそう云ったまましばらく、僕はうたたねしてしまったらしい。――ふと眼が覚《さ》めると彼女は、遠くの合歓《ねむ》の花の下で、紅の帯をといて、小川の水で顔や手足を洗っていた。
 遠くから見ていると、その姿がまるで子守女のように見える。
 長い間、帽子の下で眼をとじていたせいか、起きあがった時は夕方のように四囲《あたり》が薄暗いものに見えた。僕は袂《たもと》の底から、くしゃくしゃになった煙草《たばこ》を一本出して火を点じた。さわやかな初夏の憶《おも》いが風になって僕の袂をふくらます。
 合歓の木の下の彼女は、やがて帯を結んで堤《つつみ》へ上って来た。
「何だいその白い風呂敷は……」
 彼女は癖《くせ》のように、その風呂敷を背中に隠して、ニヤニヤ笑いながら「摘草《つみくさ》したのよ」と云った。
 あんまり食べられそうな草がたくさんあるからと云うのだ。彼女の拡げた風呂敷の中には、ひずる[#「ひずる」に傍点]やたんぽぽ[#「たんぽぽ」に傍点]や、すいば[#「すいば」に傍点]のようなものまで這入っている。白い風呂敷と思ったのは、彼女のさらし[#「さらし」に傍点]の襦袢なのであった。「だから、僕は安心して貧乏が出来るんだね」とも口に出して云いたいほど、彼女は二十三歳にしては、ひどく世帯《しょたい》くさいのだ。
 夜は、これらの摘草を茹《ゆ》でて食卓《しょくたく》に並べた。色は水々しかったが、筋が歯にからんで、ひずる[#「ひずる」に傍点]の噛《か》み工合《ぐあい》などはまるで蒟蒻《こんにゃく》のようであった。

 墓場の向うの火葬場《かそうば》には、相変らず毎日人を焼く煙《けむり》がもくもくと埃《ほこり》色に空に舞いあがっている。――僕はもう職業を求めるために街へ出たり、履歴書など書く事は徒労だと思い始めた。僕が頭を下げて行った先々の人間達は、いわゆるフォイエルバッハの大邸宅《だいていたく》と名づけられるような、中では茅屋《ぼうおく》にある場合と違った考えを人達はしているものだ、で、全くもってムザンでありすぎる。――朝眼覚めて口を洗い、ゴロリと横になって、人を焼く煙を眺《なが》めている僕のかたわらに、おぼつかない手付でもって縫いものをしている彼女がいる。髪の毛には網《あみ》のように白い埃が溜《たま》っていて、それを眼にした僕の口の中には、何か火の玉をくくんだように切ないものがあった。
 彼女はきっと「私、いい縫物屋を知っていますから頼《たの》んであげましょう」とでも云って、この着物の仕事を森本ちぬ子から取って来たのに違いない。
「ねえ、この間平井さんの奥《おく》さんに会ったら、早くちぬ子さんに着物を返した方がいいわ、縫物屋へ持って行くッて云って、菊さんは質屋へ置いてしまって、とても困ってるッて云いふらしてるのよ、なんて教えて下《くだ》すッたんだけど、まさか、こんな洗い※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《ざら》した着物五拾銭も借さないでしょうのに、私とても淋《さび》しくなってしまった」
 僕は沈黙《だま》っていた。彼女がその着物をちぬ子の家から持って来てもはや十日あまりにもなるのだが、一心になって毎日こつこつ縫っている彼女に向って、何を僕が咎《とが》めだてする事が出来るだろう。
「でも、もうこれで出来上ったのだから、持って行こう……」
 彼女は、出来上った着物を畳《たた》んで座蒲団《ざぶとん》の下に敷《し》いた。
「出来上ったンなら早く持っておいで、友情のない奴の品物なンぞ見るのも不愉快《ふゆかい》だ」
 僕は一々彼女に向ってああしては悪い、こうしては悪いなどと云う事に草臥《くたび》れ始め、自分のキリキリした神経もこの頃《ごろ》では少しばかり持てあまし気味でいるのだ。
 履歴書も四五十通以上は書いたろう、あらゆる友人を頼《たよ》って迷惑《めいわく》な手紙も随分書いたが、頼んだ友人達自身が何等《なんら》の職もなく弱っている者が多かった。
 彼女は着物を風呂敷に包むと、悪戯《いたずら》ッ子らしく眼をクルクルさせて僕の両手を引っぱり、台所へ連れて行くのだ。「ねえ、私、ちぬ子さんにいいお土産《みやげ》を持って行こうと思うのよ」そう云って彼女が台所の流し場を指差したのを見ると、西洋種の紅い豆《まめ》の花や、束《たば》の大きい矢車草がぞっぷりと水につけられていた。
「おお綺麗《きれい》だなア……」
「綺麗でしょう……」
「どうしたンだい、こんなゼイタクな花束を?」
「ううん……新墓へ行って盗《と》って来ちゃったのよ。私、もったいないと思うたわよ。だって随分あるの、お金持ちのお墓なんて十円位も花束があがっててよ……」
「で、お土産に利用するのかい、仏も浮《うか》べないねえ……」
「だって美しい花だものほしいわ」
 彼女は、その花束を如何にも花屋から買ったかのように紙に包んで、風呂敷をかかえ日向《ひなた》の道へ小犬のように出て行った。
 僕は起きあがって窓ッぷちへ腰を掛けて墓の道を眺めた。墓を囲んだ杉《すぎ》や榎《えのき》が燃えるような芽を出している。僕にはなぜか苦しすぎる風景であった。夜が待ち遠しい位だ。早く夜になってくれるといい。部屋の中に空箱《あきばこ》のように風が沁みて行ったが、生きている喜びも何も感じられないほど、すべてが貧弱なもので、二|畳《じょう》と八畳きりの座敷の中には、この僕一人が道具らしい存在だ。歪《ゆが》んだ机の上には、訳しかけのプウシュキンの射的の草稿《そうこう》が黄いろくなったままだが、もうこんなものも売りに歩く自信もなくなりかけた。僕はふと誰かの話を憶い出した。バルザックのプチイ・ブルジョアを半年かけて訳して、六百枚あまりが百円にもならなかったと云う侘しさを。半年の情熱をかたむけて訳したその人の気持ちはこれまた侘しすぎる以上だろう。
 ――僕は一二年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じた事はなかったはずだったが、いや、生活の事を考えるのが恐ろしかったのかも知れない、薄暗い珈琲《コーヒー》店の片隅で考える事は愚《ぐ》にもつかない外遊の空想などばかりであった。

 僕はまた、壁の帽子をかぶって、彼女の厭がるステッキを持った。墓の中の散歩をこころみるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。熱ばんでたまらないと云った風に、雀《すずめ》達が、ころころ地べたを転がるように飛んでいる。なるほど、彼女が云ったように、新墓には草のように花がそなえてあった。もう萎《な》えかけたのなどもある。三十歳、十五歳、十九歳、皆、若い仏達であった。その中で一ツ僕の眼をとらえた紀意大善姉と書いてある墓標があった。墓標の裏には、レニエエか何かの「浮世《うきよ》には思い出もあらず」と記してあったが、この言葉は今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。二十八歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか……僕と同じ年齢《ねんれい》で亡くなった、この新墓の主の墓標の言葉に、僕は全く口笛《くちぶえ》さえ吹きたくなったほど気持ちが軽くなった。
「浮世には思い出もあらず」何とすがすがしく云い放ったものであろう。灰色の墓原の向うにこの僕の心に合わせて、誰か口笛を吹いて通る者がある。

 帽子の釘《くぎ》に一緒にぶらさげた電気に灯がはいると、彼女は風呂敷を米で針坊主《はりぼうず》のようにふくらまして帰って来た。
「五拾銭|貰《もら》って来たのよ。ちぬ子さんたらあんまり上手《じょうず》じゃないわねえッて云うの」
「あいツ、お前の縫った着物を着たら体が腫《は》れあがって来るだろうさ、――ところで、今日《きょう》墓の中でいい言葉をみつけて来たよ」
「どんな言葉?」
「いいや、別にあらたまるほどじゃないが、明日、またどッかへ花を持って行くところはないかね。グラジオラスやチウリップがたくさんあったよ、その墓の主なら咎めだてはしないだろう――『浮世には思い出もあらず』と書いてあったのさ」
「浮世には思い出もあらず[#「浮世には思い出もあらず」に傍点]、変に気取った奴ね、私だったら『うらめしい』と書いてもらうわ」
「ええッ、うらめしい[#「うらめしい」に傍点]か、なるほどねえ」
 こましゃくれた奴だ。彼女は米さえ買って来ると唱歌が上手になる。一坪の厨《くりや》は活気を呈《てい》して鰯《いわし》を焼く匂いが僕の生唾《なまつば》を誘《さそ》った。
 たった五十銭の収入で驚《おどろ》くべき生活のヒヤクだ。僕もあわただしく机へ向った。今は黄いろくなって古びたりと云えど、プウシュキンの訳に手を入れてみるべきだ。彼女は十日かかって五十銭の収入を得て来ている。そうして彼女の唱歌は実に可憐《かれん》だ。――僕は膝《ひざ》を正して字引を繰《く》ったが、字引の冷たさは、僕をまた白々しいものにする。字引を売って、魚に変えた方がましだ。鰯の匂いは、懐《なつ》かしい匂いであった。
「さア食べましょう。実に久し振りに、実に実に……私アーメンと云いたくなるわ。あなたのよく云う食べるだけなのかい人間って奴はッて云うのを止めましょう。さあいらっしゃいよ」
 玄関《げんかん》の食卓には、墓場から盗って来たのであろう桃《もも》色の芍薬《しゃくやく》が一輪コップに差してあった。二人は夢中《むちゅう》で食べた。実に美しくつつましい食慾《しょくよく》である。彼女は犬のように満ちたりた眼をしている。
「今日はねえ、帰りにまた平井さんのところへ寄ったの、あなた夜番ッて職業厭かしら」
「夜番?」
「ええ夜番なのよ」
「夜番ッて?」
「とてもお金持ちのお邸《やしき》ですって、女ばかりなンで書生さんが欲しいンだとかで、平井さんが、三吉君どうだろうッて云うのよ。食べて三十円ッて、ちょっといいと思ったから……」
「二人で行けるのかい?」
「そこまで聞かなかったわ、……本当ねえ」
「何だ、それじゃアつまらないじゃないか、……俺は何だってするよ。もうこうなったら、机の前にタンザしている気持ちなンかないンだから」
 彼女は口いっぱい飯を頬ばったまま引っこみのつかないような顔で、大粒な涙をこぼし始めた。実際、広い屋根屋根の下にはこうした人生の片言があっちにもこっちにもあるのだろう。
「そいで、三十円くれると云うのは本当の事なのかね?」
 飯を頬ばっているので、彼女はコックリをしてみせる。
 僕は字引を街で金に替《か》えて、平井の紹介状《しょうかいじょう》を懐《ふところ》に、その郊外の邸へ行ってみた。武者窓でもつけたら、侍《さむらい》が出て来そうな、古風な土塀《どべい》をめぐらした大邸宅で、邸を囲んで爽々《さつさつ》たる大樹が繁《しげ》っていた。ピアノの音が流れて来る。もうそれだけでも、変に臆病《おくびょう》になってしまって僕は何度か大名風《だいみょうふう》な門前を行ったり来たりしたが、ふとまた「浮世には思い出もあらず」の言葉に、急に血潮が熱くなるような思いで、僕は足音高く案内を乞《こ》うた。
 出て来たのは十六七ばかりの桃割れの少女であったが変につんつるてんな着物を着ている。僕はまず応接間に通され、ここで約一時間位も待たされた。――ユトリオ張りの油絵が一枚、なげしに朱《あか》い槍《やり》一本、六角型の窓の向うには、水の止まっている大きな噴水《ふんすい》があった。その噴水のまわりには、薊《あざみ》の花が叢《くさむら》のように咲いていた。
「素敵だなア!」何となく感歎《かんたん》してしまえる静寂《せいじゃく》であった。やがて、僕は未亡人だと云うこの家の主の部屋へ案内されたのだが、いったい女中が何人居るのか僕はまるでリレーのように次から次の女中へと渡《わた》されて、夫人の部屋の外まで来た時は、逃《に》げ出したいほど、何かもやもやした気味わるさを感じ
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