…別に本当の事なンか出やしないわ。だって、こんなの、まるで河のほとり[#「ほとり」に傍点]に立って何か唄《うた》っているようなの……ねえ、その気持ち判《わか》るでしょう」
「判らないねえ、僕はうたよみ[#「うたよみ」に傍点]じゃないから……」
「そう、そうなの……」
 本当を云えば、初め、僕は彼女を愛しているのでも何でもなかったのだ。彼女だって、僕と一緒になるなんぞ夢にも思わなかったろうし、結婚の夜の彼女が、「済まないわ……」と一言|漏《もら》した言葉があった。どんな意味で云ったのか、僕だけの解釈では、僕以外の誰かに、済まなさを感じていたのであろう。――僕は彼女を知る前に、一人の少女を愛していた。骨格が鋭《するど》く、眼《め》は三白眼《さんぱくがん》に近い。名は百合子《ゆりこ》と云った。歩く時は、いつも男の肩に寄り添《そ》っていなければ気が済まないらしく、それがこの少女の魅力《みりょく》でもあった。
「とうとうお菊《きく》さんと結婚なすったンですってね。三吉さんもなかなか隅《すみ》におけない」
 黄昏《たそがれ》の街の途上《とじょう》で会った時、百合子はチラと責めるように僕を視《み》てこう云ったが、歩きながら、例のように百合子は肩をさし寄せて、香料《こうりょう》の匂《にお》いを運んで来る。だが、おかしい事には再会するまでのあの切なさも、ふと行きずりにこうして並《なら》んでみると、夫婦《ふうふ》になってからもなお遠く離《はな》れて歩く菊子の方が、僕には変に新しい魅力となって来ているのに気がつくのであった。
 結婚して苔《こけ》に湧《わ》く水のような愛情を、僕達夫婦は言わず語らず感じあっていたのだが、それでもまだ、長い間の習慣は抜《ぬ》けきらないもので、金が一銭もなくなると、彼女はおかしな風呂敷包《ふろしきづつ》みをつくっては墓場の道を走って行く。で、僕はひょうげ[#「ひょうげ」に傍点]て、まるで下宿屋か何かの女でも呼ぶように「お菊さアん」と窓から呼ぶのだ。すると、白く振《ふ》り返った彼女は、一生懸命《いっしょうけんめい》に笑った顔で、「お使いよオ」と答える。
「お使いなンかいいんだ。帰っておいでよ」
「だって、あンた苺《いちご》を食べたくないの? それを買いに行くの……」
 何か眼の中が熱くなって来て、墓場の上に紅《あか》い粒々《つぶつぶ》がパッと散って行くほど、僕は
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