先生は陽が縞《しま》になって流れ込んでいる窓に凭れて、目をつぶって対話に聴きとれている。
 休みの鐘が高く鳴り響いた。
「先生、田口さんいけませんのよッ」
「さア、鐘が鳴りましたからおしまいにしましょう。では、この次に、リヤ王の対話を空で出来るようによく復習していらっしゃい。それから、書取りもおさらいして来るンですよ」
 先生が、袴《はかま》をさばいて教壇へ歩んで行くと、啓吉は、
「起立!」
 といって立ち上った。
「礼」
 誰か、くすくす笑って首をさげているようだったが、礼が済んでも先生は、つっ立ったまま出て行かなかった。
「田崎さんと、饗庭さんと一寸残って下さい、あとは外へ出て遊ぶこと……」
 啓吉と饗庭芳子とが残った。先生は椅子を引き寄せて腰かけながら、
「さア、こっちへいらっしゃい! 先生が変ると、皆の気持ちがゆるむものですけれど、貴方たちは級長さんと副級長さんですから、先生を助けてしっかりして下さらないといけませんよ。饗庭さんも、副級長さんでしょ。黒板なンかにいたずら[#「いたずら」に傍点]しないように……」
 啓吉も饗庭芳子も赧くなった。

       二十三

「田崎さんのお家から、何の御用でいらっしゃったの?」
 と先生が、啓吉の襯衣の釦をはめてやりながら訊いた。
「…………」
 啓吉は黙っていた。優しい先生に、自分の家庭の話をする事は面倒でもあったし、可愛らしい饗庭芳子がくりくりした目をして微笑しているので、何と返事をしていいか判らなかった。
「どなたか御病気?」
「いいえ――」
「級長さんは随分おとなしいのね」
 そういって先生が立ちあがると啓吉は、またこの先生にも嫌われてしまったような、淋しい気持ちになりながら、自分の机へ行ってぽつんと腰を掛けた。饗庭芳子は先生の袴へもつれるようにくっつきながら先生と一緒に廊下へ出て行ってしまったが、明らかに、啓吉は、自分の孤独さを感じるのであった。運動場では、マリのように子供達がはずんでいる。
 啓吉は落ちつかなかった。――啓吉は正午の時間になると、先生へ黙って、ランドセールを背負ったまま裏門から外へ出て行った。早く帰って、どんなにしてでも九州とかいう、遠い土地へ連れて行って貰おうと思ったのだ。もう心の中では「母アさん、母アさん」と泣き声をあげていた。
 檜葉《ひば》の垣根に添って這入って行くと、家の中が森としているのが啓吉によく判った。啓吉は裏口へ回って見た。雨戸が閉ざされている。節穴から覗いてみたが、中は真暗だった。啓吉は庭へ立ったまま途方に暮れてしまったが、自分の影が一寸法師のように垂直に落ちているそばに、何時かの植木鉢が目についた。コツンと足で蹴ると、ごろごろと植木鉢が転んで行って、その跡には雌の蟋蟀がしなびたようになって這っていた。小さい雄は、植木鉢の穴からでも逃げたのであろう。啓吉はしゃがんで、乾物のようになった雌を取り上げると、一本一本ぴくぴくしている脚をむしってみた。
「母アさアん!」
 返事がなかった。
「母アさんてばア……」
 四囲が森としているので、声は自分の体中へ降りかかって来た。
 大きい声で、再び啓吉は、
「母アさん!」
 と呼んでみたが、声が咽喉につかえて、熱いものが目のふちに溢れ出て来た。本当に皆で九州へ行ってしまったのに違いない。啓吉は、ランドセールにしまいこんだ白い手紙の事を想いだすと、いよいよ自分一人捨てられてしまったような悲しさになった。
 小さな風が吹くたび、からからと木の葉が散って来て、誰もいないとなると、自分の家が大変小さく見える。
 啓吉は腹が空いたので、ランドセールから弁当を出して沓《くつ》ぬぎ石に腰を掛けて弁当を開いた。弁当の中には、啓吉の好きな鮭がはいっていたが、珍しい事に茄で玉子が薄く切って入れてあった。
 その玉子を見ると、母親は自分を置いて行く事にきめていたのに違いなかったのだと、また、新しく涙があふれた。
 弁当が終ると、啓吉は井戸端へ回って、ポンプを押しながら、水の出口へ唇をつけてごくごく飲んだ。水を飲んでいると、まだその辺で、「啓吉!」と母親が呼んでくれそうな気がして、母親が始終つかったポンプ押しの握るところを、そっと嗅《か》いでみた。冷い金物の匂いがするきりで母親の匂いはしなかった。啓吉はランドセールを肩にすると、夏の初めにやって来る若布《わかめ》売りの子供のような気がして、何だか物語りの中の少年のように考えられ出して来た。

       二十四

 省線で、啓吉が渋谷の駅へ降りると、改札口を出て行く勘三の姿が目に止まった。勘三は花模様の羽織を着た若い女の連れがあった。
「叔父さん!」
 啓吉は走って行ったが、勘三は女の人と熱心に何か話しているらしく、振り返りもしないでずんずん歩いて行った。啓吉は改札口で切符を返して小走りに追ってみたが、ランドセールが、がらがら音がするので、きまりが悪くなって立ち止まったりした。
 だが、大きな甘栗屋の曲り角まで来ると、連れの女の方がひたと歩みを止めてしまった。勘三は、暗い顔をして時々地面を見たり遠くを眺めたりしている。
 呼び止めていいのか、悪いのか、啓吉はおずおずしたが、勘三と道連れになって叔母の家へ行けば、何となく這入りいいような気がした。
「叔父さアん!」
 それでも、啓吉の声が小さいのかまだ聞えないようだ。やがて、勘三と連れの女は、横町へ曲ってレコードの鳴っている喫茶店へ這入って行った。扉の中から奇麗な音色が流れて来た。
 啓吉は待っていてやろうと思った。で、叔父達の出て来る間、ラジオ店の前へ、呆んやり立って見た。電気の笠や電気アイロンや、電気時計の飾ってある陳列窓の中は啓吉にとって愉しいものばかりで、見ているはしから色々の空想が湧いた。
 店の前には小さいラジオが据えてあって、経済ニュースのようなものを放送していた。店の中には誰もいない容子だった。啓吉は、そっと、ラジオを手で擦《さす》って見た。どこに音が貯えてあるのか不思議だったし、まるで噴き井戸から無限に溢れる音のように、ラジオはよくお喋《しゃべ》りしている。
 黒いスイッチが三[#「三」は底本では「二」]ツついていた。一ツを捻ってみた。声が柔かくなった。真中のスイッチを捻ってみた。80だの90だのと数字が変って行く度に、声に波がついた。啓吉は面白くてたまらなかった。最後に残ったスイッチを捻ると声がはたと止んだ。啓吉は周章てて、そのスイッチを返し一番初めに捻ったスイッチを巻いて見たが、自分で愕《おどろ》く程な、大きな濁音だらけで、啓吉には手のほどこしようもない。狼狽の面持ちで、三つのスイッチを、あっちこっち捻ってみたが、音は出鱈目《でたらめ》で、店の中から、吃驚したような声をたてて、
「馬鹿野郎!」と、頭の禿げた電気屋が飛び出して来た。
 啓吉は横町へ隠れたが、電気屋はまだ追っかけて来た。啓吉は、たまらなくなって、叔父達のいる喫茶店の中へ飛び込んで行った。
 勘三は頬杖をついていたが、啓吉がランドセールを背負った格好で飛び込んで来たので、驚いて立ちあがった。
「どうしたンだ? 叔母さんと来たのかい?」
「いいや……」
「どうしたンだ?」
「ラジオ屋で悪戯《いたずら》して叱られたンだよ」
「――どうしてこンなとこへ来たンだ?」
「駅んとこで、めっけたから、呼んだンだけど判らなかったンだよ……待ってたの……」
「そいで、ラジオ屋冷やかしてたンだな」
 勘三は、「ああ吃驚した」といった顔つきで、腰を降ろしたが、
「沢崎さん、さっきの話、不快に思わないで下さい」
 といった。沢崎といわれた女は、ニッコリして、
「まア、この方が、あのハンドバッグを拾って下さいましたの? よくお出来になるらしいのね」
 と、自分の前にあった菓子を包んで、啓吉の汚れた手にそっと持たせてくれた。

       二十五

 沢崎という女のひとと別れて、勘三と二人で歩き出すと勘三は、
「あああ」
 と溜息をついて、
「啓吉、いまの女のひと好きか?」
 と、尋ねた。
「…………」
「どうだ、感じのいいひとだろう、ええ?」
「うん」
「叔母さんに、女のひとと歩いていたなンて、そんな事をいっちゃ駄目だよ」
「ああ」
 啓吉は、菓子をくれた女のひとが、ハンドバッグをおとしたひとだったのだなと思った。非常に気取っているようなひとだと思った。勘三はまるで、浮腰のようなふわふわした歩き方をしていたが、不図、
「叔母さんへお使いで来たのかい?」
 と尋ねた。お使いと尋ねられると、啓吉は九州へ行くといって学校へやって来た母親を想い出して、胸が痛くなった。白い手紙と五拾銭玉一ツ貰ったが、その白い手紙や五拾銭玉を貰ったために、母親とは一生逢えないような気がするのであった。
「ねえ、母さんは九州へ行くっていったンだぜ。学校から早く帰ってみたンだけど、家内じゅう留守なのだもの……」
「へえ、九州へ行くって? 何時?」
「もう、行っちゃったンだよ」
 啓吉は背中のランドセールを降ろして、母からの白い手紙を出して、叔父へ渡した。
「……そうか、ま、いいや」
 勘三は封を開いて、中から手紙を抜き出したが、その手紙の中には拾円札が一枚折り込んであった。
「啓吉、お母さんは本当に九州へ行ったらしいよ……」
「……九州って遠いの?」
「ああとても遠いよ。長崎ってところだ。知ってるかい?」
「ああ港のあるところだろう?」
「そうだ」
 啓吉は、地図の上でさえも遠い長崎という土地を心に描いて、はるばるとしたものを感じた。
「新しい父ちゃんと、礼子ちゃんと……」
 勘三が何気なく言いかけると、啓吉は、手の甲で目をこすり始めた。
「莫迦野郎! 泣く奴があるか。啓坊はよく出来るンじゃないか。ええ? 元気を出して、一つ、うんと勉強して、皆を吃驚《びっくり》させてやれよ……」

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波と風とにさそわれて
今日も原稿書いている……
[#ここで字下げ終わり]

 啓吉が、ひどく悄気《しょげ》ているのを見て、勇気づけてやろうと思ったのか、勘三が鼻唄まじりにうたい出したのだが、啓吉は、涙よりもひどいしゃっくりが出て困った。
「そンなに淋しがるな、ええ? 叔父さんだって、なんじゃ、もんじゃだ。判るかい? 面白いだろう。淋し淋しっていうンだ。しっかりしろ!」
 しっかりしろといわれても、中々しゃっくりは止まらなかった。
「変なしゃっくりだなア、ぐっと息を呑み込んで御覧よ。ぐっと大きく……」
 コロッケ屋と花屋の前へ来てもしゃっくりが止まらなかった。勘三の家では伸一郎が万歳をして迎えてくれた。
「まア、啓吉、また来たのかい?」
 前掛で濡れ手を拭きながら出て来た寛子は、目立って鮮かな頬紅をつけていた。
「姉さんはとうとう都おちだぜ」
「都おち?」
「落ちゆく先きは九州|相良《さがら》とか何とかいわなかったかね。――とうとう、水商売が身につかずさ、九州へ行っていったい何をするのかねえ……」

       二十六

「だけど、それは本当でしょうか?」
「本当にも何にも、ほら、これを見て御覧よ。ええ? 拾円札封入してあります。よろしくお願いしますさ。姉さんにすれば、啓坊だって可愛いさ、腹を痛めて産んだ子供だものねえ……」
「可愛いければ何も……」
「連れて行けばいいっていうんだろう。だけど、姉さんにすれば身は一つさ、子供だって可愛いが、連れ添ってみれば御亭主も可愛いとなったら、君はどうする?」
「いくら新しい良人がいいったって、子供は離しませんよ」
「それは、まともな事だよ。だけど、良人がその子供を嫌がったら困るじゃないか」
「そんな無理をいう良人は持ちませんよ」
「そうか、そうすると、さしずめ、俺は無理をいわぬ、いい御亭主だな」
「何ですか、少しばかり懸賞金貰ったと思って厭に鼻息が荒くて……」
「まだ三百円貰えなかったことにこだわっているのだろう? 新しい雑誌社だもの、五拾円でも貰えれば、もって幸福とせにゃならん」
「ああ厭だ厭だ……」
 寛子は、啓吉の方へ見向き
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