もしないで、台所の方へ降りて行った。
 啓吉は所在がないので、梯子段の上り口に腰を降ろして爪を噛んでいたが相変らずしゃっくりは止まらない。
 勘三は、勘三でまた腹這いになって、
「俺だって、こんな生活は厭々なンだ」
 と大きい声で呶鳴った。
「そうでしょう……貴方が厭だってことは、この二三日、私によく判っていますよッ」
「大きな口を利くなッ」
「そんな事をおっしゃるけれども、ちゃんと判るンですから……貴方の気持ちなんて……」
「うん、それで、頬紅なンぞつけてきげんとっているんだな?」
「あら厭だ、若い女に言うような冗談はいわないで下さい!」
「冗談か、ま、女って奴は、都合のいいようにばっかり理屈をくっつけたがる、奇妙なもンだ。――啓吉! 出てお出でッ」
 啓吉は、さっとして立ちあがった。
 寛子は、頬をふるわせて坐り込んでいたが、啓吉が、障子の陰から呆んやり出て来ると「何ですかッ、啓吉啓吉といってさ」と、跫音《あしおと》荒く、二階へとんとん上って行った。
 叔父のそばへつっ立っていると不思議にしゃっくりが止まった。
「叔母さんはよく怒るねえ」
「僕が来たからだろう?」
 勘三は愕いたような目をして、啓吉を見上げたが、
「心配するな、叔父さんが後にひかえている。――子供のくせに、ええ? 心細がる奴があるかッ」
「…………」
「ああ、叔父さんだって、まごまごしちゃいられないんだ。啓坊も叔父さんもうんと勉強してさ、ねえ、――そこの煙草を取ってくれよ」
 啓吉は銀紙のはみ出たバットを部屋の隅から取って来てやった。
「九州って遠いの?」
「九州か、そりゃッ遠いさ……行きたいか?」
「…………」
「母さんが一番いいんだろう……」
「だって、あのおじさんのいない時には、母さん、うんと僕たち、可愛いがるよ」
「いまに、礼子ちゃんと帰って来るさ、待てるだろう?」
 啓吉は心の中で、「どこで待てばいいか」と訊きたかった。

       二十七

 啓吉は伸一郎を守りしながら、誰にも愛されないで、叔父の散らかしている本ばかりを読んで暮らした。
 アンデルセンの絵なき絵本という本は、そっと自分のランドセールに隠してしまった位すきであった。
 絵なき絵本を読むと、飛んでもない連想が湧いて、遠い長崎に行った母親を尋ねて行きたくなった。――長崎へ行くには、不思議な色々な道があるのに違いないと思った。

 学校で、木のてっぺんにもず[#「もず」に傍点]が鳴いていた時のように、よく晴れた朝であった。
 啓吉は、勝手をしている叔母や、朝寝をしている叔父達に黙って、ランドセールを背負ったままほつほつ西への道へ向って歩いた。
 アドバルウンが、月のような色をして昇っている。啓吉は歩きながら、段々心細くなって来たが、それでも引きかえす気持ちはなかった。
 ただ、啓吉の心をかすめてゆくものは、学校の庭の景色や伸一郎が壊してしまった硝子の壺の事や、ガレージの二階の尺八吹きの部屋のありさまなどで、肉親の事と言えば、やっぱり、母だけが泣きたい程、なつかしいのであった。
 空が青くって奇麗だ。
 自分の前へ進んで行く、柱のように長い自分の影を踏んで、啓吉は、学校へ行く時のようにランドセールをゆすぶりながら歩いた。
「おおいッ! あッ、あぶないッ」
 誰かが啓吉の後から突き飛ばした。啓吉はよろよろ二三歩前へつんのめったが、前額部をがあんと道へ打つけたと思うと、後はそのまま、暫く何も覚えがなかった。
 目の上に海のような空所が見える。血の筋が渦巻きのような模様を造って色々に描かれて行った。
「おおい!」
 誰かが呼んでいるようだ。後から鰐《わに》のような黒いものが啓吉の背中を突きとばした。啓吉は、痛くて痛くて耐えられなかった。自分のまわりに、色々な顔の人間達が、手をつないで、
「しっかり、しっかり」
 と、勢いをつけてくれている。
 だが鰐《わに》の口が、ガリガリ音をたてて啓吉の肉のなかに食い込まれると、
「痛いよう!」
 啓吉は、思わずうなり声をあげた。
 自分のうなり声に、思わず瞼をあけると、白い部屋の真ん中に、啓吉は横になっていた。アンデルセンの物語りのなかのように、小さいながら清潔な部屋で、月のような若い看護婦が二人も、啓吉の枕元に立っていた。
 枕元には海のように青い空だけ見える窓が一つあった。
「痛いですか?」
 脣の奇麗な看護婦が訊いた。啓吉は顔を歪《ゆが》めようとしたが、頭には包帯が巻いてあるらしく、顔が歪まなかった。
 手も足も、動かせば、すぐずきんずきんと頭に響いた。看護婦達が、枕元で、窓の下を見て話しあっている。
「運がよかったのねえ、ランドセールが身代りに、まるでおせんべいみたいだったンですって……」
 啓吉は、菓子の銀紙にする、鉛を積んだトラックにはねとばされたのであった。
 啓吉は、うつらうつら薄目のままでまた深い眠りにおちたが、頭の中に、唄のような柔かい風が吹きこんで、蝶々も小鳥も、鰐も、草花も、太陽も、啓吉の夢のなかで、絵具が溶けるように、水のようなものの中にそれが拡がって行った。
[#地から1字上げ](昭和九年十月二十三日―十一月二十一日 東京朝日新聞)



底本:「日本文学全集20 林芙美子集 」河出書房新社
   1966(昭和41)年2月3日発行
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2003年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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