あげて泣きたてた。
十九
どっかで野球でもしているのか、カアンと球を打つ空鳴りがしている。啓吉は久し振りにランドセールを肩にして勇んで歩いた。
校門をくぐると、校庭の蔓薔薇《つるばら》などは虫食いだらけの裸になってしまって、木という木はおおかた葉を振り落していた。
ピアノの音が聴えてくる。教室に這入ると、女の子達はてんでに宿題のリヤ王物語を読んでいた。啓吉の学年[#「学年」は底本では「学生」]は三級もあって、転校者の多い級だけ男女混合であった。副級長の饗庭《あえば》芳子という美しい娘が、啓吉を見てにこにこ立ちあがって来た。
「田崎さん、随分お休みなすったのね、今日は試験があンのよ……第十四課のリヤ王物語ね、あれを読まされるのよ……」
啓吉ははにかんで、ランドセールを降ろすと、さっそく読本を出して見た。まだ鐘が鳴らないので教室は動物園のようににぎやかだった。
「田崎君! どっか行ったのウ?」
「この間ねえ、飯能《はんのう》へ遠足だったンだよ……」
男の子達も、啓吉のそばへ集って来た。
啓吉は級長だったので、留守の間の事を、面白そうにがやがやとお喋りに来るのだ。
「ねえ、そいから先生がお変りンなったの、女の先生よ。とてもいい先生なのよ……」
「西内先生は?」
「神戸の方へいらっしたンですって……」
女の子達に身近く囲まれると、啓吉は赧くなってポケットに両手をつっこんだ。突然ひょうきんな田口七郎兵衛という酒屋の子供が、
「第十四課、リヤ王物語、リヤ王はもう八十の坂を越えた生れつき烈しい気性の上に、年とともに老の気短さが加わってちょっとした事にも怒り易くなっていた。それに近来はめっきり元気が衰えて、もう政務にもたえられなくなって来た。王にはゴリネル、リガン、コルデリヤという三人娘があった……」
と、自慢そうに朗読を始めた。すると、副級長の饗庭芳子が、
「ああら違うわよッ、ゴリネルじゃないでしょ? ゴネリルにリガンにコーデリヤでしょ。田口さんは早口だから駄目だわ」
「へッ! だ。生意気いってらア、ゴリネルだっていいんだよだ。早く読んじまえば判りゃしないさ……」
「まア、憎らしい、私、違いますって、松本先生に申しあげるからいいわ……」
「女の癖に何だい! 生意気な、白目の大将が好きなンだろう」
「しどいわねえ、ええいいわよ! いいわよオだ……何ですかねえ?」
啓吉は美しい副級長に覗きこまれると、とまどいした鳩みたいに目をぱちくりさせた。
あっちこっちの机が段々賑やかになって来て、各々音読を始め出したが、田口七郎兵衛は復習が積んでいるのか白雲頭を振り立てて大きい声を振りあげて読んだ。
「……怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけ果てた王は、我にもあらず荒野の末にさまよい出た。その夜は風雨にともなって雷鳴電光ものすさまじい夜であったッ……」
「何? ちょっと、自慢そうに、声だけたててンのよ。意味なンかわかりゃしないのよ、このひと……」
饗庭芳子が、舌を出して田口七郎兵衛をからかった。
「何だとッ! もう一遍いってみろッ、今宵の虎徹《こてつ》は血に飢えている、目に物見せてくれるぞッ!」
と言うが早いか、飛鳥のように、饗庭芳子に飛びついて行ったが、机が邪魔で、田口七郎兵衛はついに机の上に泥靴のまま立ち上った。丁度、校庭では始業の鐘が、ガランガランと涼しく鳴り始めている。
二十
朝礼の体操も終って、校長先生の訓話が始まる頃、葉のまばらになった校庭の桜の梢に、もず[#「もず」に傍点]がきゃっきゃっといった鳴声で呼びたてた。もず[#「もず」に傍点]は、木のてっぺんで鳴く鳥だと啓吉は誰かに教わったことがあった。よくみていると、初秋に飛んで来るみそさざいが、ちょん、ちちちっと気ぜわしく飛びはねているが、死んだ田舎の祖母が、「みそさざいが来ると、雪が降るだよ」と言った事を思い出して、秋はいいなア、と啓吉は思わず空を見上げた。
「おい、外見《よそみ》をしてはいかん!」
背中で手を組んでいる体操の教師が、後からやって来て啓吉の後頸をつついた。皆、くすくすと笑った。啓吉は赤くなってうつむいた。
朝礼が済むと、啓吉は自分の級の先頭に立って教室に這入って行った。
びゅうびゅう口笛を吹く者や、唱歌をうたう者、読本と首っ引きの者、復習をしてなかったと、泣きそうになっている者や、まるで教室は豆が弾《は》ぜたようだ。啓吉は気が弱くて、
「静粛!」
という声がかけられなかったのだが、不意に副級長の饗庭芳子が、
「皆さん! 静粛にして下さいッ!」
と呶鳴った。
一寸の間静かになったが、誰かが隅の方で、
「凄げえなア」
と感嘆の声をもらすと、津浪のように皆がどっと笑い出した。とりとめようもない程、笑い声が続いた。啓吉は、益々小さくなった。田口七郎兵衛は教壇に上って、
――静カニセヨ――
と白墨で黒板に書いた。すると、また笑い声がもり返って来て、風呂屋のように机を叩いて唄うものが出て来た。
女生徒達の方では、
「困るわねえ、男の生徒ってきらいだわ……」
とぐちぐちこぼし始めたが、やがて、饗庭芳子は何を思ったのか、つかつかと教壇に上って、
――男のセイトキライ――
と書いた。
窓が開いて、ひときわ空が高く澄んでいるせいか、黄いろいジャケツを着た饗庭芳子は、輝くように美しく見えた。ガラス越しに、頭髪が繻子《しゅす》のように光っている。
饗庭芳子が教壇から降りようとすると、田口七郎兵衛が教壇へどんどん上って行って、
――オンナノセイトスキ――
と書いた。皆どっと笑った。
「あら、先生よッ!」
「先生がいらっしたよ、饗庭さん早くウ!」
扉がすうっと開いた。
田口七郎兵衛は矢庭に黒板消しをつかんだが間にあわなかった。饗庭芳子はそっと机に帰った。
啓吉は立ちあがると、
「起立!」
と号令をかけた。
白雲頭の田口七郎兵衛は黒板消しを持ったまま不動のしせいをとった。
無雑作に衿元で髪をつかねた色の白い先生は、黒板の字を見ると、急に顔を赧めて、
「貴方がこんないたずらを書いたの?」
と田口七郎兵衛に訊いた。
田口七郎兵衛は悄気《しょげ》てしまって黙っていた。先生は、また――男のセイトキライ――と書かれている方を見て微笑しながら、
「さア、その黒板消しを先生にお返して、席におつきなさい」
と、静かに教壇に上って行った。啓吉には、新しい先生がひどく神々しく見える。田口七郎兵衛は頭をすぼめて降りて行ったが、七郎兵衛が席につくと、啓吉は大きい声で、
「着席!」と号令した。
「貴方が級長さんですか?」
啓吉は赧くなってうなずいた。先生は、黒板の方へ向くと、まず饗庭芳子の書いた――男のセイトキライ――から静かに消して行った。
二十一
「復習して来ましたか?」
先生は黒板を消し終ると、机の上の本をパラパラと繰って、
「饗庭さん、第十四課の六十六頁を開けて、四行目から読んでみて下さい」
饗庭芳子は立ちあがると声を張りあげて、
「今日はお前たちに一つ聞いてみたい事がある。お前たちのうちで誰が一番この父を大事に思ってくれるか。わしはそれが知りたいのだ。先《ま》ず姉のゴネリルからいってみよ。と尋ねた。……」
張りのあるいい声で、啓吉はうっとりと聴きとれていた。何時か、饗庭芳子が、学芸会の席で、鎌倉[#「鎌倉」に傍点]を暗誦して読みあげたことがあったが、実にいい声であった。
[#ここから2字下げ]
由比の浜辺を右に見て
雪の下道過行けば
八幡宮の御やしろ
[#ここで字下げ終わり]
のあたりなどは、彼女の得意のところらしく、啓吉はいまでも饗庭芳子の振袖姿を思い出すのだ。
「はア、そこンところで次に級長さんに読んで貰いましょう。級長さんは、何ていうお名前?」
「…………」
啓吉が赧くなっていると、饗庭芳子が、大人びた物いいで、
「田崎啓吉さんておっしゃいます」
と言った。
「そう、田崎さん、ではその七十二頁の、饗庭さんの次から読んで御覧なさい……」
すると立ちあがった啓吉は、すっかり周章《あわ》てて、何行目だったろうと、七十二頁を繰ったが、やたらに、「王は男泣きに泣いた」というところだけが目にはいって来た。
誰か後の方で、
「怒りと失望と後悔と……」
と、いってくれている。啓吉は益々うろたえてしまった。どの行を見ても、「怒りと失望と」の活字がないのだ。
「田崎さんはお休みになったのですね。じゃ、外の方に読んで貰いましょう……」
啓吉はそっと席へついた。脇へ汗がにじんだ。一番前にいる近眼の中原という子が立って読んだ。
「怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけた王は……」
読本へ目を据えると、ちゃんと自分の正面へその活字が並んでいる。そっと目を上げると、先生は目を閉じて立っていた。啓吉は、一遍も復習しなくても、すらすら読めて行った。まごまごした自分が口惜《くや》しかった。
「はいッ、そのくらいで、少し書取りでもしてみましょうか?」
先生は、皆に雑記帳を出させた。
「御本はみんな伏せてしまって、ようござんすか、リヤ王はもう八十の坂を越えた……」
甘い声であった。大勢の鉛筆の音がすっすっと走っている。
「姉二人は既に、ですよ、既にさる貴族に嫁《か》し、妹はかねてフランスの后《きさき》になることにきまっていた……」
森《しん》と静まり返った廊下をこつこつ誰か歩いて来ている。
扉が開くと、小使いのお爺さんが、
「先生、この組に田崎啓吉という子供さんはおりますかな?」
と尋ねた。
「田崎? ああ級長さんでしょう、いますよ」
鉛筆の音が止まった。啓吉はどきりとした。
「一寸お母さんが、急用があるそうでなア、周章てて来ていなさるで……」
「そう、じゃそっと行ってらっしゃい」
先生は立ち上った啓吉の肩を押して、扉の出口へ連れて行った。啓吉が出て行くと、先生はまた声を張り上げて、
「領地をゆずる日に、王は娘たちを面前に呼んで……」
と愉しそうに朗読するのであった。
二十二
学校へなんぞ来た事のない母親が、何の用事でわざわざ啓吉を尋ねて来たのか、啓吉は不安で仕方がなかった。
小使い部屋では貞子が、大火鉢にしゃがみ込んであたっていた。
「まア、お使いだてして、本当に済みません」
小使いに世辞をいうと、貞子はすぐ立ちあがって、
「啓ちゃん、一寸」
と、啓吉を、外へ連れ出した。校庭では二組ばかりの体操があった。ポプラの樹の下に来ると、貞子は白い封筒を出して、
「ねえ、お母さまね、暫くの間だけど、九州へ行って来なくちゃならなくなったの。おじさん、御商売が駄目になってしまってねえ、とても、大変なのよ。それで、一寸の間だけれど、この手紙持って、寛子叔母様のところへ行っているの、伸ちゃんのお守りをしてあげて、少しの間だからおとなしく待っていらっしゃい、判った? ええ」
「…………」
「今度は啓ちゃん、連れてゆけないのよ。ねえ……」
「遠いの?」
「ああ遠いの、だけどすぐに帰って来るから……この手紙大事なのよ、いい?」
啓吉はうなずいた。貞子は流石にしょんぼりしている啓吉を見ると、何となく心痛いものを感じたが、
「じゃ、お教室へ行ってらっしゃい。母さんが、いいものを啓ちゃんに送ってあげようね」
「学校、またお休みすンの?」
「さア、叔母様に相談して、あの近くの学校へ行くようにしてもいいでしょ」
「帰れっていわない?」
「帰れっていったかい?」
「ううん、いわないけど……」
「それ御覧、大丈夫だよ、それで勘三叔父さんは、啓ちゃんと仲良しだものねえ」
体操の組では綱引きが始まった。オーエス、オーエスと叫び声があがっている。
貞子が帰って行くと、啓吉は白い封筒を襯衣のポケットへ入れて教室へ帰って来たが、教室ではリヤ王が劇に組まれて、饗庭芳子が、男の声でリヤ王を演じていた。饗庭芳子のリヤ王があんまりうまいので、啓吉が教室へ這入って来ても誰も振りむかなかった。
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