な算術のような男女の間を、菅子は年齢を重ねているだけに、危険に感じて来ているのであった。「誰が好きか」といえば、母親が好きだと率直に啓吉はいったが、はて、自分は、故郷を捨てて出て来ているし、両親はとっくの昔に亡くなっていたし、何となく色々な男の顔も浮かんで来たが、心寒い淋しさばかりで、好きで仕様のない顔というものが浮んで来ない。
「もう、そろそろ寒くなるわね」
 部屋へ這入ってスイッチをひねると、菅子の牡丹色のジャケツが啓吉の目に奇麗にうつった。母の貞子に連れられて昼間二三度は来た事があったが、夜更けて来たのは初めてで、啓吉は、寛子の家よりは気軽なものを感じ、貧しいながらもちゃん[#「ちゃん」に傍点]と食ってだけはゆける菅子の部屋の温かさに、啓吉は急に、黙って寝転んでしまいたいような愉しさになった。
 菅子は、啓吉の母親に一番よく似ていて、牡丹色のジャケツをぬぐと、広い胸が北国の女らしく乳色にさえざえしていた。啓吉はまぶしいものを見るように、畳へ腹ばって、散らかっている婦人雑誌を眺め出したが、
「啓ちゃん、ここの釦《ボタン》をはずして、ううん?」
 洗濯したてのスリップの背中の釦が固く釦穴にしがみついていて離れないので、不意にしゃがみ込んで啓吉の前に、白く光った背中を持って来た。若い叔母の何でもないしぐさに啓吉も何でもない気持ちで躯を起したけれども、妙に脣のあたりが歪んで指先きが震えた。大人のような表情にもなり得る。菅子には、子供のそんな表情なんか見えない。兎に角「好きなひと」にこだわ[#「こだわ」に傍点]ってしまって、事務所の男の連中を考えても見たが、どの男達も、「ねえ」と向うから手を差し出して来れば、恥じらった格好だけはしてみせる位、どの顔もそう嫌いではない。躯は受粉を待っている九分咲きの花のようなもので、菅子は、啓吉の冷たい指が背中にひやひやする度、気の遠くなるようなもの思いに心が走って行った。
 戸外の風が段々風脚が強くなった。

       十六

 不図《ふと》、啓吉が目を覚ますと、叔母はまだよく眠っていた。脣の隙間から、白い前歯が覗いている。啓吉は、朝の部屋のなかをひとわたりぐるりと見渡して、また叔母の背中へくっついて眠って見たが、急に母親の匂いが浮んで来た。菅子のむき出した肩のあたりに顎を凭《もた》せかけると、母親に逢いたくなって、粒々な涙が、みひらいた目から湧くように溢れた。
 祭日なのか、花火が遠くで弾けていた。
「中橋さん! 中橋さんお客様ですよッ」
 アパートの管理人が、扉をノックしている。啓吉は、すぐ涙を拭いた。菅子は吃驚《びっくり》人形のように起きあがると、浴衣の寝巻きのまま扉を開けに立った。叔母が出ていった布団の中はぬくぬくして気持ちがいい。
「なアんだ、吃驚するじゃないのッ、何? 朝っぱらから……」
「誰かお客様?」
「お客様? ああお客様よ、いいひと……」
「へえ! 珍しい……」
「莫迦にしてる。だから、不良少女だっていうのさ」
「もういいわよ。不良不良って、どっちが不良さ……部屋へ這入っていいの?」
 蓮子が尋ねて来たのだ。菅子は荒神山の杉の木のような乱れた髪のままで一間のカーテンを開けた。風が静まっている。省線電車が、郊外の方へ向って、いっぱいふくらんではしっている。
「何だッ、啓ちゃんか……」
 啓吉は布団から頭を出して、蓮子に薄く笑って見せた。
「お菅ちゃんは相変らず堅人だ……」
「唐変木《とうへんぼく》っていうンだろう?」
「いいや――この頃、やっぱりお菅ちゃんみたいなのがよくなったわ」
「三石氏、どうなの? 可愛がられて貧乏すンのいいじゃないか。手鍋をさげて奥山住いってこともある……」
「厭よッ! 可愛がってなンかくれやしないわ、初めのうちだけ……」
「御馳走さま……」
「だめよ、冷やかしちゃア……今年こそは何とか入選させて……少し落ちつきたいっていってるのよ……」
「実際、三石夫妻と来たら、空家ばっかり探してるじゃないか、で、また、お引越しで、このアパート世話しろってンじゃないの? まっぴらよ」
「ひどいわ。姉妹の居るところへおかしくて越せますかッ、……って力んでみたところで仕方がないけれど、本当は、私、三石の所を逃げて来たの……」
「まア!」
「本当よ」
「おどかしちゃ厭だよ、ええ? 後で涼しい顔するンだろう?」
「厭だわ、そンなのじゃないわ。ねえ、落ちつきたいっていうから、私、少しの間だけど、カフェーに勤めたりして、随分つくしたンだけど……留守の間に、別れた奥さんと逢引きなンかしてるんですものねえ」
 啓吉は長い間の習慣で、起き上ると、布団をきちんとたたんだ。二人の叔母の話をそれとなく耳に入れていたが、よくは判らない。只、寛子によく似ている蓮子の顔が、妙に老人臭くなってしまって、菅子の方が七ツも年上なのに、ひどく艶々している。啓吉は、よく喋る叔母達を見ていた。
「さア、ま、いいから、湯がわいたらさ、紅茶でも淹《い》れて手伝いなさい」
 菅子は鏡台の前に坐って髪をとかし始めた。
「そいで、今度こそ決心したの……」
 そういって蓮子は、瓦斯《ガス》のそばへ行って紅茶を淹れながら、思い出したように、
「男って解《わか》ンないわ」
 といった。
「そンなに早く男が解っているくせにね……」
 菅子が櫛を持った手を叩いて、くっくっ笑い出した。

       十七

 啓吉が、菅子や蓮子に連れられて、花火のポンポン昇っている戸外へ出たのは昼ちかくであった。
「何も、別れた奥さんに逢っていたからって、怪しいってもンじゃないでしょ、ねえ夫婦になって、一々腹を立ててちゃ仕方がない」
「そりゃア、お菅ちゃんが結婚してみないからだわ、前の奥さんに逢ってて腹を立てない女ってないわよ」
「そうかねえ……」
 各々、蓮子にしても、寛子にしても自分の御亭主をいっぱし浮気者に考えているだけ、天下泰平なのだと、酔いどれの勘三や、空家ばかり探し歩いている人のいい三石の事を思い出すと、何となく心細い気もする。
「少々はほかの女のひとにも何とか言われるんでなきゃ、御亭主にしては張合いがないだろう……」
 菅子が一矢放った。蓮子は驚いたように唇を開けた。人妻になったとは言っても根が十七歳の少女だ。黙りこんでしまった。
 省線で中野の駅へ降りると、電信隊の横の桜が大分葉を振り落していて、秋空が大きく拡がっている。啓吉にはそれがなつかしかった。
 今日は学校が休みなのだろう、広場で、学校友達が群れて遊んでいる。時々遠くの群の中から、「田崎君!」と子供達が啓吉を呼んだりした。
 啓吉は赧《あか》くなりながら、それでも懐かしそうに、叔母達の後から振り返ってはニヤリと笑ってみせた。どこの庭にも菊の花が咲いていて、
「郊外も此処はいいわね」
 と蓮子が言うと、菅子は靴の先きで小石を蹴りながら、
「ここだって市内だよ」
 と言った。
 啓吉は吾家へ、四日振りに帰って来たのだけれども、まるで一年も見なかったような、遠い距離を感じるのであった。
 急いで玄関を開けると、
「おや、一人かい?」
 と言って、濡れ手拭を持った母親が出て来た。風呂から帰ったばかりと見えて、衿《えり》のあたりがほんのり白くなっている。啓吉は帰って来た事を叱られそうな、おずおずした目で、
「ううん」
 と言った。
「まア、あンた達なの……金魚のうんこ[#「うんこ」に傍点]みたいにぞろぞろして……」
 玄関には、大きな男の下駄がぬいであった。風呂からあがりたてで桜ン坊のように赤くなった礼子が奥から走って来た。
 貞子は、玄関へつっ立ったまま妹達へ上がれとも言わない。
「寛子姉さんがね、啓坊を連れてって、容子を訊いてくれって言うもんで……」
「そう、じゃ、啓吉置いてらっしゃい、何も、容子なんかあンた達に話す事ないじゃないのさ……」
「怒ってンの?」
 菅子が急にむっとして言った。
「怒ってやしないけど、連れに行くまで置いてくれてもいいじゃないの……姉妹|甲斐《がい》もないねえ」
「何よういってンのウ、湯帰りか何かでのんびりしててさ、自分の子供を妹の所帯へあずけっぱなしで……何もねえ、容子を訊くってのは、男のひとが居るのか居ないのかをさぐりに来たンじゃないわよ」
「まア、いいわよお菅ちゃん!」
 蓮子が急におろおろした。
「放っといてよお蓮ちゃん! いうだけはいわなくちゃア、ええ? 昨夜は啓坊は私のところで泊るし、その前の晩は、神田の尺八を吹く人の家に世話になったりして、寛子姉さんとこだって、二晩もあずかってさ、夫婦喧嘩までおっぱじめたりしたのよ……そんな邪魔な子だったら孤児院にでもやったらいいでしょう!」
 啓吉は貝のように固くなった。

       十八

 叔母達がぷりぷりして帰って行くと、
「啓吉!」
 と、母親の怒声が頭の上で破れた。上目で見上げると、針金のように剃りあげた眉を吊りあげて、貞子が障子に凭れている。
「お前のような子供はどっかへ行ってしまうといいんだ。一つとしてろくなこたアありゃアしない。――お母さんを苛《いじ》めりゃいい気持ちなんだろう! ええ? そうなンでしょ……」
 啓吉は黙ってうなだれていた。しまいには首が痛くなってしまった。足元を蟻の大群がつっ切って行っている。蟻のお引越しかな、啓吉はそう思いながら、痛い首をそっと下へ降ろしかけると、
「莫迦!」と、いって、横面がじいんとするほどはりたおされた。
「ええ? どこまで図々《ずうずう》しい子なンだ! 親が何かいっているのに、地面ばっかり見つめてさ……母さん、お前のような白ッ子みたいに呆けた子なンか捨てっちまうよッ」
 柔かい素足が、玄関の大きい下駄の上に降りたかと思うと、啓吉は猫の仔のように衿首をつかまれたまま引きずられて、三和土《たたき》の上へずどんと転んでしまった。転ぶと同時に、思いがけない大声が出て、涙がほとばしるように溢れた。貞子も、啓吉の大声に吃驚したのか、一寸ギクッとしたかたちであったが、格子をぴしッと閉めると、泣いている啓吉を引き起して、
「大きななり[#「なり」に傍点]して莫迦だね、もういいよ。帰されたもの仕方がないじゃないかね。本当に莫迦で仕様がないよ……さ、お靴をぬいでお上り、ええ?」
 遠くで子供達の歌声が聞えて来る。家の横のポプラの落葉が、格子戸の硝子にばらばらと当って墜ちてゆく。
 声をあげて泣いていると、百のお喋りをしたよりも胸がすっとして、啓吉は呆れてつっ立っている母の足元で、甘えるように、おおんおおんと声をたてて泣いた。
「どうしたンだ?」
 茶の間から、鼻の頭がぎらぎらしている男が出て来た。その後から、妹の礼子が、
「お兄ちゃん泣いてるよ」
 と、走って男の手へつかまった。
「大きい癖に、から[#「から」に傍点]、意気地がなくてねえ……」
 流石に、貞子も気がとがめたのか、「ああ」と溜息をついて上へ上った。
「おい、小僧! さ、泣き止めてッ、ええ? 手でも洗って、礼ちゃんと遊んでお出でよ」
 啓吉は泣く事に草臥《くたび》れたけれども、声をたてることは気持ちのいいことなので止めなかった。不思議なことに声を立てていると、涙があとからあとから溢れ出て来る。
「まア、いいわ、放っときよ……」
 貞子は、男にそう言われると、渋々奥へ這入って行ったが、礼子だけは、
「兄ちゃん、泣かなくてもいいよ」
 と大きな下駄をはいて、啓吉のそばへしゃがんだ。啓吉はうるさいよ[#「うるさいよ」に傍点]といった格好で睨《にら》みつけた。
「莫迦野郎!」
 啓吉がそっと礼子の身体を押した。両手に五銭玉を一つずつ握っていた礼子は、ぐらぐらする拍子に、その五銭玉二ツを三和土の上へ投げ散らした。
 啓吉はそれを足で蹴った。
「厭よッ! 厭だアよッてば……」
 礼子が立ちあがって頬をしかめそうになると、啓吉は、矢庭《やにわ》にその五銭白銅を拾って、がらがらと格子を開けて戸外へ出て行った。
「兄ちゃアん! 莫迦ヤロッ!」
 礼子が地団駄《じだんだ》を踏んで啓吉よりも高い声を
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