こっちが厭になるよ。――伸ちゃんもお出でッ、襯衣買ってやるよ」
勘三は、寛子の容子をうかがっている啓吉の頭を押して伸一郎を背負うと、どんどん路地の外へ出て行った。
「いいかい、叔母さんに何でも黙ってンだよ」
「…………」
「おい、こら、判ったのか、判らンのか?」
「うン、でも、あのお金を使っちゃったんだろう?」
「ううんいいんだよ。叔父さん明日は沢山お金が這入るンだから返しに行くよ。解ったろう……」
硝子屋の前には、青色で染めた硝子鉢が出ていた。啓吉はそれを指でおさえて、
「これがいい」
といった。
十二
金魚鉢は青くて、薄く透けていて、空へ持ちあげると雲が写っている。啓吉には素晴らしい硝子の壺だ。啓吉はそれを覗き眼鏡にして、拡ろがった空を見ながら、
「ねえ、空はどうしてあんなに青いの?」
「空かい?」
「うん」
「さア、何かで空の青いことを読んだが……大気の中にいる微粒子ってものがさ、水蒸気になってさ、その微粒子の沢山な量が、むくむく重なると、あンなに青い空になるンだと……」
「微粒子って青いものなの?」
「面倒だな、叔父さんだって、本当は覚えてやしないよ。微粒子ってのはねえ……ほら、海の水だって掬《すく》ってみると青くないけど、どっさりだと青くなるじゃないか、ねえ、お前のその鼻水もそうだよ……」
啓吉はずるりと鼻汁をすすった。
「さアて、金魚鉢買ったら洋品屋にまわって、伸公の襯衣《シャツ》を買ってやらなくちゃ、叔母さん怒るからねえ」
「あの青い袋のお金で買うの?」
「余計なことをいわンでもいいよ。叔父さんがちゃんと明日は持って行くンだから……」
伸一郎は蜂の腹のようなだんだらの襯衣を買ってもらった。
「さア、伸公、ずいずいずっころばしを唄って帰ろうや」
啓吉達が勇んで路地の中へ帰って行くと、寛子は開けっぱなしの玄関に立っていて、気味の悪い程な機嫌のいい顔でニコニコ笑ってつっ立っていた。
「貴方!」
「何だッ」
勘三は故意に強い顔をして見せた。
「貴方ッ、三百円三百円……三百円よ」
「何のことだ、周章《あわ》てくさって、ええ?」
「懸賞が当ったのよ」
「ホウ……どこだい?」
「まア、呑気だ。そんなに方々心当りがあるの?」
「余計なことをいいなさんな。亭主を何時も莫迦にばかりしているから亭主だって、方々へ心当りをつけとくンさ……」
勘三は寛子から手紙を受取ると、そそくさと二階へ上り、すぐに支度をして降りて来た。
「また、昨夜みたいに、へべれけになって帰っちゃ困りますよ。いい? 家賃だって今月は少しかためて払わないじゃ、追っ払われそうだし、判りましたか?」
「あああだ、君の顔をみると、家賃の請求書に見えて仕方がないよ。ま、兎に角、俺の留守には、支那|蕎麦《そば》の十杯も食べて呑気に待っていなさい。ええ?」
勘三が元気よく、往来へ出て行くと、寛子は落ちつきのない容子で、鏡台の前に坐った。化粧水も髪油もとうの昔に空っぽだ。ああ早く三百円にお目にかかってあれもこれも……ねえ伸ちゃんといいたい気持ちで、寛子が振り返ると、啓吉も伸一郎も、裏の貧弱な椹《さわら》の垣根の下で、盛んに泥をこねかえしている。
「伸ちゃん! あんまり、ばばっちいことしちゃ駄目よッ」
玄関を開け拡げておくと、小さい鏡の中へまで、路地の上の空が写って見える。――啓吉が女の子だったら、女中がわりにでも置いてやるのだけれど、……何にしても三百円は大金だ。寛子は油気のないばさばさした髪に櫛をとおしながら、昨夜持って帰った、女持ちの青いハンドバッグが気にかかって仕方がなかった。
「一寸《ちょっと》見せてよ」
と言ったら、周章《あわ》ててしまいこんでしまったけれど……寛子は思い出したように急に立ちあがると、泥いじりしている啓吉へ、
「啓ちゃん、一寸お出で、一寸でいいの……」
と、裏口から啓吉を呼びたてた。
十三
星の奇麗な晩で、頭の芯が痛くなる程、啓吉は二階からあおむいて空を眺めた。
階下では、ハイキングに行った中の叔母の菅子が、野菊や赤い実のついた木の枝を土産《みやげ》にして、寛子と話しこんでいる。
「電気つけて……」
伸一郎が、つまらなくなったのか、手摺《てすり》から離れると、啓吉に電気をつけてとせがんだ。机は茶餉台がわりに階下へ降りているので、踏台になるものが何もない。
「うん、電気よか、星の方がピカピカしているよ、伸ちゃん、僕がアメリカを見せてやるからお出でよ……」
「アメリカ」
「ああとてもよく見えるよ、明るくて国旗がいっぱい出ててさ……」
啓吉が、伸一郎の腋の方へ手をまわしてかかえ上げると、伸一郎の胸の動悸がことこと激しく鳴っている。
「怖いかい」
「うん」
「怖かないよ……」
かかえ上げると、伸一郎が手摺に足をふんばったので、大きな音をたててどすんと、二人とも尻餅をついた。
「何、おいたしてるのッ! どすんどすん暴れて、埃がおちて来るじゃないのウ」
啓吉は首を縮めた。伸一郎はわざと、足を畳に投げつけた。啓吉は吃驚して、伸一郎の上へ馬乗りになったが、暗い闇のなかで、伸一郎の顔の上へ、自分の顔を持って行くと、乳くさい息が、微風のように啓吉の咽喉へ吹いて来た。啓吉は遠いものを探しあてたように、伸一郎の唇の上へ、自分の額を押しつけた。
「ぐりぐり坊主、ぐりぐり坊主……」
と、小さい声でささやきながら、啓吉は、伸一郎の腋の下を擽《くす》ぐった。擽ぐりながら、二人はころころ転げまわった。啓吉は冷たい畳の上を伸一郎と転がりながら、あくびまじりに涙が溢れた。
「おい! おいた[#「おいた」に傍点]してると、きかないよッ」
二階の梯子段の上から、寛子の顔が生首のように覗いた。階下では、菅子の優しい声で、
「子供だもの放っときなさいよ」
と、姉をたしなめている、ぽつんとした声がきこえる。
「真暗だね? 眠いンなら、二人とも降りていらっしゃい。その辺をばらばらにしていると叔父さんに叱られるよ」
啓吉はまた首を縮めた。
階下では、菅子が、牡丹色《ぼたんいろ》のジャケツに黒のジャアジイのスカートをはいて、横坐りになったままで、
「そりゃ勿論、姉さんがだらしがないのさ、だけど、女ってものは三十になったって、あンたのいうような、そンな分別なンてつかないと思うわ。しかも、五年も一人でいたンですもの、子供なンかかまって[#「かまって」に傍点]られないと思うの……」
「母性愛なンてものはなくなるかしら?」
「母性愛? 冗談じゃないわ、そンなことはあンたみたいに御亭主のある人のいうことさ、――あンなにまだ若づくりで、むちむちしてンですもの、苦労してる気持ち判るわよ……」
「おやおや一人者の癖して、よく三十女の気持ちがお判りになりますねえ?」
「判るも判らないも、本当の事よ。蓮ちゃんだって、そうだわ。たった十七だけど、あんなになって、子供の癖にいっぱしの女房気取りで、……一番、あンたを莫迦にしている位よ」
「へえ、私を莫迦に? 何時逢ったの?」
「ううん、一寸尋ねて来たンだけど……まるきり変ってしまってねえ、苦労はしてるらしいけど、一人者のあたしの方が、よっぽど羨ましかったわよ」
十四
九時が打った。
勘三はまだ帰らなかった。誂《あつ》らえた支那蕎麦が本当に十杯ばかりも並んだ。
「こんなに御馳走になって済まないわ」
「何いってンのよ、さア、伸公も啓ちゃんもたンとお上りよ」
啓吉は茶碗をかかえ上げて、湯気で頬を濡らしながら、青いハンドバッグの事を知らないで押し通した事に気がひけながら、蕎麦を食べた。小さい電気の下に、四ツの大きな影が部屋いっぱいに重なりあって、いっとき静かに蕎麦の音をさせていたが、寛子が思い出したように、
「あンたも、蓮ちゃんを羨ましがらないで、早く結婚したらいいじゃないの?」
「うふッ……何を思い出してンの、さ、私は私よ。いまにもっともよき人を選んでね」
「薹《とう》がたってはお終いだから……」
「まア、有難う! 三人のいい見本がありますから、せいぜい利巧に立ちまわるわ……」
「莫迦! ところで考えてるンだけど、四人のうちで私が一番貧乏性かも知れないわね。――酒呑みで、呑気そうで浮気者の亭主をかかえてさ、おまけに、呆んやりした子供をぶらさげてて、一生に一度、あンたみたいに、安香水でもいいからふりかけて見たいよ本当に……」
「皮肉ねえ……」
「ん、そ、そうじゃないさ、つくづく亭主ってもの持ってみて、女ってものの利巧さかげんがよく判ったのよ」
「だって、義兄さんは、あれで芯はしっかりしているわ、啓坊のお父さんみたいだと困るじゃないの? あれもいけない、これもいけないっていうから、義兄さんが亡くなっちゃうと、姉さんはいっぺんに若返って、娘のやりなおしみたい甘くなっちまってさ……」
「結局、早稲《わせ》も晩稲《おくて》も駄目で、あンたみたいなのがいいってことでしょ」
「あら、厭だア、冗談でしょ。私だって情熱があれば、蓮ちゃんの轍《てつ》を踏む位何でもないけれど……職業なンか持ってると、そうそう男のひと一と目見て、一途《いちず》にやれないからなの、――でもそろそろ本当は困ってンのよ。二十四にもなって、別に処女を大事にしてるってのじゃないけど、いまさらその辺へ一寸安々捨てられもしないし……」
「もてあましている?」
「全く、本当にそうなのホホ……」
「厭なお菅ちゃんだ……。ところで、父さん、どうしたんだろう? 遅いわねえ」
伸一郎は、早、寛子の膝を枕に眠りこけている。隣家では時計が十時を打った。
「昨日も電話があったけど、ねえ、本当に困るンなら、私が明日連れてって、姉さんの容子、どんな風か見てこようか?」
「拝むわ、そうしてよ、何だか虫が……」
好かないと言おうとしたが、啓吉が、痩せた影をしょんぼり壁に張りつけさせて、叔母達の話を聞いているので流石《さすが》に寛子も言葉を濁した。
「啓坊が一番苦労するね」
菅子が、そういって立ちあがった。朽葉色の靴下が細っそりしていて、啓吉の目に美しく写った。
「じゃ、そろそろ帰ろう……啓坊連れてきましょうか?」
「頼むわ」
寛子は、襯衣のない啓吉が風邪《かぜ》を引くといけないといって、勘三の縮んだ夏襯衣を、啓吉の下着に着せてやった。
「さア、子供のうちは、何でもいいッと、じゃ、二三日してまた来ます。義兄さんによろしく。大金が這入ったら、それこそ安香水でも買ってね」
小麦色の合いの外套を引っかけた菅子の後から、啓吉は、眠た気な目をして、
「さよなら」
といって戸外へ出た。路地には風が出ていた。
十五
風が出ていて、啓吉は、歩くのがおっくうであったが、菅子の後から眠むそうにひょこひょこ歩いた。
渋谷から六つ目だかの高田の馬場で降りると、菅子のアパートは線路の見える河岸に建っていた。アパートといっても、板造りの二階建で、もうかなり歴史のある構えだ。
「啓ちゃんは、一等誰が好き?」
「…………」
「よう、誰? いって御覧よ」
菅子は赤いスリッパにはきかえて、埃のざらついた梯子段を上りながら、下から上って来る啓吉に尋ねた。
「ええ?」
「母アさん……」
「へえ……そうかねえ」
菅子はくりくりした顎の先を部屋の鍵で軽く叩きながら、母と子の愛情は、どんなに粗暴であっても、固くつながっているものだと、少しばかり感心しながら、
「啓ちゃんのお母さんは、礼子ちゃんばかり可愛がるじゃないの?」
と言った。
「…………」
啓吉は、応える言葉がないのか黙っていたが、思い出したように、小さい口笛を吹き始めた。
四人の姉妹のうち、菅子だけは学問が好きで、田舎の女学校も出ていたし、長い間、貞子の家も手伝っていて、姉の結婚生活には軽い失望も感じる程、しっかり者だった。
貞子の家庭や、寛子の家庭の容子を見ても、自分が早々と結婚するには当らないような気持ちを持っていたし、よし、結婚したところで、満足な答えは出て来そうもない、不思議
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング