でん屋へ這入った。
「仕方がないさ、飯でも食べて、蓮子叔母さんとこへ行く事にしようや」
そういって、始めは遠慮っぽく蒟蒻《こんにゃく》や、がんもどき[#「がんもどき」に傍点]のたぐいをつっついていたのであったが、根が好きな酒だ。鼻の先きでプンプン匂わされては、
「ええい」
と気合の一つもかけたくなろう。何時の間にか、勘三の前には徳利が四本も並び、四囲は暗くなった。
「何よウびくびくしてンだい! ええ啓坊! 大丈夫だよ。相手はいくらヴァンドンゲンでも、高が落選画家だッ、叔父さんが連れて行けば、四の五のいわさんよ、ええ? あんなサロン絵描きを崇拝するから、三石はついに三石なんだ……おおい酒だ!」
勘三はいささか酒乱の相がある。
啓吉は、最早、母が遠くなったと泣くどころではなかった。躯中に鐘を打つような動悸《どうき》がして来た。
「叔父さんお家へ帰ろうよッ」
「ううん、判った判った、お家もよかろう。女房も伸ちゃんもよかろう。が、さてだね――人生はそんなびくびくしたもンじゃないよ。ええ? 活発に歩かンけりゃいかん。ねえ姐《ねえ》さんや……」
おでん屋の若い女主人は、唇元へ手をあててただおほおほ笑っている。
「どうだい? 啓坊、お前みたいなものは、出世出来ンぞ! 何だ! びくびくして、秀吉と蜂須賀小六の話を知らんのかねえ……」
勘三は懐から原稿の束を出すと、一つ一つ題を読みあげていった。
「一、臍《へそ》問答、二、風や海や空、三、瘰癧《るいれき》のある人生、四、不格好な女、五、鍛冶屋《かじや》同士の耳打話と、どうだい、どれだって面白そうじゃないか、それなのに、これが一本の酒手にもならんというのだから不思議だよ……」
卓子には徳利が七本になった。
啓吉と同じ位の厚化粧した女の子が、「唄わして頂戴よ、お客さん」と這入って来た。啓吉は、吃驚して勘三をつついた。
「ああいくらでも唄いな。人生唄いたいだらけだ。どら俺が一つ唄ってやろう……」
[#ここから2字下げ]
風と波とにさそわれて
今日も原稿書いてます
酒も飲めない原稿を
風と波とにだまされて……
[#ここで字下げ終わり]
啓吉は、立ち上って一人で戸外へ出て行った。
九
――この車庫二階尺八教習所・都山流水上隆山――一台も自動車の這入っていないガレージの横に、ペンキ塗りのこんな看板が出ている。
鍵の抜けたピアノのようながらんとした車庫の中へ這入ると、ドスンドスンと跫音《あしおと》が天井へ響く。
「おい、小僧! 待ってな、いいかい」
啓吉は泥まみれな足で、車庫の入口につっ立っていた。酔っぱらいの叔父さんなんかどうでもいいや、俺は発明家になってやるんだから、そう力んでいても、看板の上の五燭の電灯がまるで、一つ目小僧のようで、啓吉の胸の中は鳴るような動悸がしている。
「おい! 小僧ッ、馬穴《ばけつ》をやるから足を洗って [#全角空きはママ]その鉄梯子から上って来な」
ガレージの隅がほのあかるくなった。そこから鉄梯子がさがっていて、小さい馬穴が紐にぶらさがって降りて来た。啓吉は尺八を吹く男の、大きな下駄を持って、水道のそばへ行った。黒い駄犬が啓吉にもつれついて来た。
小僧小僧だなんて、大人になったら大学へ行くんだのに莫迦《ばか》にしてらア、啓吉は、よく母親のところへやって来る「小僧小僧」と呼び捨てにする男の事を思い出した。俺は小僧に見えるのかな。厭だなア、二階へ上ったら名前を言ってやろう……啓吉は、雑巾で足を拭いて、鉄梯子を上って行った。啓吉が二階へ上って行くと、暗い三和土の上でいっとき黒犬が降りて来いと甘えて吠えていた。
尺八教習所といっても、部屋の隅には布団が三四人分も重ねてあり、七輪だの、茶碗だの、古机などが雑居している。
「腹はどうだね?」
「…………」
「ええ? 遠慮はいらないンだよ」
「…………」
「おや! 小僧は何時の間に唖《おし》になったンだ?」
「田崎、啓吉ってね、いうんだよ」
「ああそうか。ま、名乗りはどうでもいいや、これから飯の支度だ。その辺にごろごろしてな」
隆山は新聞紙を丸めて、七輪の中へそれを入れ、手攫《てづか》みで炭をその上に乗せマッチを擦った。机の上には尺八の譜本のようなものが一二冊載っていたが、ハヒハヒチレツロ……などと、啓吉にはさっぱり面白くない。女気がないと見え、四囲は鼠の巣のようで、天井には雨漏りの跡の汚点《しみ》だらけだ。
「おい! 鮭で茶漬はどうだい?」
濡れた新聞包みの中から、鮭の切身が二切出て来た。隆山は指で摘まんで、七輪の炭火の上に、じかにそれをあてて茶碗を畳の上に並べ始めた。――啓吉は叔母達の生活を貧乏だとは思っていたが、まだまだこの方がひどいような気がした。この部屋の主人は教習所の尺八指南だけでは食ってゆけないらしく、時々、酒場の多い街裏を流して歩いてゆくのであろう。
「明日は鱈腹《たらふく》飯を食って、お母さんとこへ帰ってきゃいいよ。なア、おい、中野の駅まで行けば道が判るのかい?」
啓吉はうなずいた。
酔っぱらった叔父をおでん屋へのこして来たままどこを歩いたのか、尺八を吹く男に拾われてこんなところへ来たのさえ不思議で仕方がない。礼子ちゃんは寝てるかな。母さんも眠ってるだろう……啓吉は、あの男と母親が、愉しそうに笑いあっているのではないかと思うと、自分が余計者のようで不図涙が出た。
「おい、ほら鮭が焼けたぜ」
いっぱい飯の盛られた飯茶碗を胸の辺へかかえ上げると押入の方で蟋蟀《こおろぎ》がりいい……と鳴き始めた。
「ああッ」
啓吉はごくんと飯の塊を飲み込み、植木鉢の下に伏せた、雌を呼ぶ蟋蟀の物哀しい声を何気なく思い出した。
十
飯を食べた。布団の中へもぐり込んだ。
深夜になると、何台も自動車が帰って来るようで、ギイッと階下の車庫の中へ滑り込む自動車のブレーキの音がしていた。啓吉は色々な夢を見た。
「この子は薄目を開けて眠るので気味が悪いわ」
と、男が泊ってゆく度、母親が弁解していたが、薄目を開けて寝ると、眠っていても声をたてる事がある。
朝になって啓吉は目覚めて見ると、夢に見たものが、部屋いっぱい散らかっていた。自分のそばには運転手や助手達が三四人も大鼾《おおいびき》で寝ていた。隆山は寝床に腹這ったまま手紙のようなものを書いている。
「どうだ! ゆんべ[#「ゆんべ」に傍点]は寝られたかい?」
「…………」
「中野まで送ってゆくかな。安心しな」
「ねえ、ここはどこ?」
「ここか、ここは神田|美土代町《みとしろちょう》さ……」
手紙を書き終ると、隆山は厚い唇で封をしめして、「さて、これで田舎の神さんも御安心だ」と、立ちあがるなり、裏の小窓を開け、尿を二階から飛ばした。
寝ていた啓吉にはその小窓がよく見えた。雲の去来を見ていると、啓吉は、雲が一つ一つ生きているように思えた。
「なぜ、雲は浮いたり走ったりするの?」
「雲かい? さア、煙だから軽いンだろう……」
啓吉は学校へ行って先生に訊くに限ると思った。陽が当っていい天気のせいか、啓吉は革の匂いのするランドセルが懐しくなった。
「僕、やっぱりねえ、渋谷の叔母さんとこへ帰ろう……」
「渋谷? よし来た。どこだって送ってってやるよ。どうせ昼間は遊びだもの……」
隆山は袂の底を小銭でちゃらちゃら音させながら、啓吉を連れて表通りへ出た。啓吉は、濡れた靴が気持ち悪かったが、四囲が爽かなので、じき忘れて歩いた。二人は電車通りにある一膳めし屋に這入った。まず壁に――朝飯定食八銭――と出ているのが啓吉に読めた。
「定食二人前くンなッ」
隆山が意勢よく呶鳴った。
その定食という奴が若布《わかめ》の味噌汁にうずら豆に新香と飯で、隆山は啓吉の飯を少しへずると、まるで馬のように音をたてて食べた。
「小僧! 美味《びみ》か?」
「…………」
啓吉は只目で合点《うなず》いた。合点きながら、返事をしいられる事が何となく厭だった。だが飯も味噌汁も啓吉には美味《うま》い。うずら豆の甘いのは、長い間甘いものを口にしない啓吉にとって、天国へ登るような美味さであった。
飯屋を出て、すぐ市電へ乗った。隆山は心のうちで尺八でも吹いているのか、こつりこつり首で拍手を取っている。
窓外を見ている啓吉の目の中に段々記憶のある町が走って来る。――渋谷の終点で降りると、隆山は陽向《ひなた》に目をしょぼしょぼさせて、
「じゃ、さよならするぜ。覚えてるかい? 覚えてたら、又遊びにおいでよ……」
といった。啓吉は吃驚したような顔をして隆山を見上げた。「遊びにお出でよ」と親切なことをいってくれたのは、大人でこの男が始めてであったから――。
「ああ」
啓吉は有難うをいいたかったのだが、何となくそれがいえないで走り出した。
花屋がある。コロッケ屋がある。啓吉はその路地へ片足でぴょんぴょん溝板を踏んで這入って行った。突き当りの二階の手摺《てすり》には、伸一郎を抱いて背を向けた勘三が、つくねんとしている。
「只今」
と格子を開けると呆れたような寛子が、
「まア、厭な子だねえ、人にさんざ心配させて……貴方! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
と、ほっとした容子で二階へ呶鳴った。
十一
[#ここから2字下げ]
田の麦は足穂《たりほ》うなだれ
茨《いばら》には紅き果熟し
小河には木の葉みちたり
いかにおもうわかきおみなよ
[#ここで字下げ終わり]
「ああいかにおもう、野崎澄子よ、か……」
勘三は、拾ったハンドバッグの中から、匂いのいいコンパクトを出して、鼻にあてながら、ストルムの詩をうたった。妻にはない若い女の匂いだ。伸一郎はぽかんとして父親の容子を見ている。
「貴方ン! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
急《せ》わしく上って来そうな寛子の声だ。勘三は、矢庭にハンドバッグを懐へしまった。何時も原稿の束をしまいつけているので、ふくれた懐も目立たない。
「へえ! 昨夜はどこへ泊ったンだ? 新聞社のところから急にいなくなったじゃないかッ」
勘三は目玉をパチパチさせて階下へ降りて来るなり、啓吉に合図をする。で、啓吉は、叔父と別れてからの話をしなければならない。
「へえ、随分親切な人もあるもンね。尺八を吹く人なのかい?」
「…………」
「他人《ひと》様だってそンな親切なお方があるンだのに、手前エはどうだ。血のつながった甥じゃアないかよ。ええ? それをさア、姉き[#「姉き」に傍点]へ意地を張って、方々へ預けようとするから、こんな間違いがおきるンだ」
「そンなことはどうでもいいわ……何も、啓坊がいなくなったからって、酒を呑んでへべれけになって帰る事はないでしょう……あとで、どうなのか、啓ちゃんに聞いてみますよ、怪しいもンだからねえ」
「余計なことを訊かなくてもいいよ。子供は天真なのだからね……」
「へへッだ! ――だって、啓ちゃんは動物園へ連れてってやっても、猿同士がおんぶしあってる事ちゃんと識ってて、顔を赧《あから》めるンですもの、もう天真じゃないわよ」
「莫迦ッ! 場所を考えて言えよ。――早く啓坊に飯でも食べさせてやりッ」
「白ばくれて、何ですかッ、私が何にも知らないと思って……皆知ってますよ」
「知ってたらなおいいじゃないか、俺が虎になって帰ったからって、何も手前エが知ってるッて威張るこたアないだろう………」
「兎に角いいわよ、後で啓吉に訊いてみますからねえ……」
「啓吉! こんな莫迦な、叔母さんに余計なことをいうと承知しないよ。いいかい、ええ? そのかわり叔父さんが金魚鉢買ってやるよ、欲しいっていったろう……」
「まア、そンな金あったら、伸ちゃんの襟衣《シャツ》を買ってやりますよ。啓吉啓吉なンて何ですか! 弱味があるンでしょう? ――本当に、死んだ義兄さんそっくりで、梟《ふくろう》みたいな目玉……啓ちゃんには罪はないけど、厭になっちゃうわ……」
「あ、あ、秋日和《あきびより》で、菅公なぞはハイキングとしゃれてるのに、朝から夫婦喧嘩か、
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