割引まで待てやせんよ。そんなに待ったらミイラにならア……」
 勘三は煙草をうまそうにふうと吐くと、啓吉の大きな顔をおさえて、
「叔父さんが金でもはいったら、一つ何を啓坊に買ってやろうか?」
 と言った。
「本当に、お金がはいったら買ってくれる?」
「ああ買ってやるとも、きんつばでも大福でもさ」
「そんな、女の子の好くようなもン厭だ」
「おンやこの野郎生意気だぞ! そいじゃ何がいいンだ?」
「あのね、あの硝子の平ぺったい壺が要るンだけど……」
「硝子の壺? 金魚でも飼うのかい?」
「…………」
「ま、いい、そんなもンなら安い御用だ。叔父さんが立派な奴を買ってやるよ」
 コロッケ屋では、馬臭い油の匂いがしている。勘三が三尺帯をぐっとさげると腹がぐりぐり鳴った。啓吉はあおむいて、
「叔父さんのお腹よく泣くんだねえ」
 と笑った。
「ふん、誰かみたいだね。叔母さん何か御馳走《ごちそう》してなかったかい?」
「知らないよ」
「そうか、ま、兎に角七八里歩いたンだから腹も泣くさ……」
 チンドン屋が、啓吉達の横をくぐって、抜け道のお稲荷《いなり》さんの宮の中へ這入って行った。

       五

「やア、お帰りッ……どんなだった?」
「駄目だよ……」
「だからさ、記者の頭って晴雨にかかわらないから、そンなものを背負って行ったって駄目なものは駄目よ。第一、私が読んだって面白くないンだもの……」
「あんまり人の前で本当のこというなよおい!」
 寛子は二階からぎくしゃくした茶餉台を持って降りて、濡れ拭布《ふきん》でごしごし拭くと、茶碗をならべ始めた。
「もう御飯?」
「ええこの人が坐れば御飯よ。どうせ歩きくたびれて、腹の皮が背中へ張りついてるンだから……」
「無茶ばっかりいってるよ。……あ、そいで、さっきの事二三日すれば目鼻がつくんだけど、啓坊をひとつ、あずかってくんないかしら、けっして迷惑かけやしないし、明日にでもなったら、少し位とどけられるから……」
「うん、その話ねえ、姉妹争いするの厭だけど、お互いに所帯を持ってるンじゃないの? 始めてなら兎に角、度々の事だし、私達も近々ここを追っ払われそうだし……」
「たった二三日よ、二三日したらお店を開くのだから、貴女にも手伝いに来て貰えるし……」
「ええだけど、いまさら私が頬紅つけて紅茶運びも出来なかろうし、本当いえば、姉さんの話当にならないンだから……」
「信用がないのねえ、……勘三さん、一つ啓坊二三日あずかって戴けません? 一生のお願いだけど……」
 勘三は、唇紅の濃い姉の姿をさっきからじろじろ眺めていた。心のうちで、三十にもなれば後家も中々辛いだろうと、変に同情してしまっている。
「ま、姉さんが、それでうまく行くんなら置いてらっしゃい」
 と、言うより仕方がなかった。
 眠っている礼子を背負って、姉の貞子が電車賃も借りずに帰って行くと、寛子は、わっと声をたてて泣いた。
「あんなひとってありゃアしない! 自分の勝手の時ばかり子をあずけに来てッ、貴方がなめられているからじゃないのウ」
「何もなめら[#「なめら」に傍点]れてやしないよ。女房の姉さんじゃないか、どうしても駄目ですとはいいきれないよ」
「莫迦にされてンのよッ!」
「莫迦にされたっていいじゃないかッ、泣く奴があるか、莫迦ッ! 早く飯にしろッ」
 勘三は懐《ふところ》から色々な原稿の束を出すと、一枚を引き破ってばりッと鼻をかんだ。啓吉は小さくなってそれを見ていた。伸一郎は遊びに行っているのかな、早く帰らないのかなと、じいっと坐ったまますすりたい鼻もようすすらないでいる。
 四人も姉妹がいて、どれも命細々長らえている生活なのかと思うと、寛子は台所をしていても、はアと溜息が出た。
「ま、仕方がないよ、いまに俺だってこの状態じゃいないし、根気でゆくより仕様がないよ。何しろ文士志望が五万人ってンだから、骨も折れるさ……」
「そんな呑気《のんき》な事いってられないわよ。伸ちゃんだって来年から学校だし、土方でも何でもして働いてくれた方がよっぽどうれしいわ。本当に!」
 勘三は大の字になった。啓吉は益々固くなって、散らかっている煙草の銀紙をひろった。
「伸ちゃん! 御飯よウ、伸公ッ」
 台所の硝子戸が開いて、癇高い声で、寛子が子供を呼んでいる。

       六

 雨がしょぼしょぼ降って薄暗い。一足飛びに冬が来たような陽気だ。
「貴方あずかるといったのだから、貴方がこの子を始末して下さい」
 それが喧嘩の原因で、勘三はまた原稿を懐にして、
「じゃア、お前の気に入るように、啓坊をお菅君の所へでも置いて来るよ」
 と勘三は啓吉を連れて渋谷駅から省線に乗ったのであった。坊主憎けりゃ袈裟《けさ》までという言葉にうなずきながら、電車に揺られていても、勘三は何も彼も面白くなかった。
「おい啓坊! 中の叔母さんのとこへ行ってもおとなしくしてるンだぞ、ええ?」
「うん」
「啓坊の母さんがなってないから、まるで啓ちゃんが宿無し猫みたいじゃないか、ううん?」
「…………」
「さて、叔父さんは雑誌社へ寄って、叔母さんの務め先に電話を掛けてやるから、叔父さんが出て来るまで、外で待ってるンだよ」
 有楽町で降りて、銀座裏の雑誌社まで歩くと、啓吉のズックの運動靴は、水でびたびたして来た。赤や緑の服を着た珍しい女達が通っている。
「大きな町だろう?」
「…………」
 雑誌社の前へ来ると、勘三は啓吉に雨傘を高くかかげさして、身じまいをなおすと、一つの原稿を封筒へ入れて、
「じゃ傘さして待ってな、あっちこっち行くンじゃないよ、すぐ出て来るから……」
 馬に乗ったような意気込みで、扉を開けて這入って行ったが、勘三がビルディングの中へ消えてしまうと、啓吉は寒さと心細さで、何度すすっても鼻水がこぼれた。ここから、母親のそばまではもう帰れない程遠いのではないかと思った。舗道の三和土《たたき》へ当る雨が、弾《は》ねあがって、啓吉の裾へ当って来る。傘が大きいので、啓吉の姿が見えない程低く見えた。
 街には昼間から灯がついていて、人力車が一台ゆるゆる走っていた。ラジオが聴える。がちゃがちゃした音楽だった。
「まだかな」
 啓吉は悄気《しょげ》て大きな傘をブランブラン振った。
「おい啓坊!」
 啓吉はほっとして傘を持ちあげてビルディングの玄関にいる勘三のそばへ傘を持って走った。
「ここも大入満員だ」
「どんな人がいるの?」
「叔父さんみたいな立派な人が沢山いるンだよ」
「…………」
 啓吉が黙っているので、勘三も黙ったままぽつぽつ歩いた。「さてどこへ行くか」勘三は不図立ち停まって、封筒から原稿を出すと、新しい原稿を出して、その封筒へ入れ替えた。
「今度は新聞社だ」
「新聞社?」
「ああ」
 いよいよ啓吉の靴は重くなった。裸の脚ががたがた震えた。マークのはいった旗をつけた新聞社の自動車が、幾台も並んでいる所へ出た。勘三はそこで物馴れた容子でのこのこ階段をあがって行った。啓吉は草臥《くたび》れてしまって、入口の石段に傘をすぼめて腰をかけた。雨がにわかにひどくなった。自動車の旗がべろんと濡れさがっている。舗道は雨で叩きあげられて乳色に煙をあげていたが、新聞社の自動車が一台一台どっかへ滑って行くと、啓吉の目の前に小さい女のハンドバッグが陽に濡れて叩かれているのが見えた。

       七

 兎に角、二人はそっと濠端の方へ歩いて行った。
 雨は益々ひどくなって、勘三の差しかけている蝙蝠《こうもり》傘が雨にザンザン叩かれている。ペンキ塗りの空家になったガレージの前へ来ると、
「啓ちゃん! それ出して御覧よ」と、勘三が立ちどまった。
「誰も来てないかい?」
「うん、誰も来てないよ」
 啓吉が蝙蝠傘を差しかけると、裾をたくしあげた勘三は啓吉の拾った青いハンドバッグを開いてみた。啓吉は背伸びをして、叔父の手元を見上げている。
「はいっているかい?」
「まてよ……」
 青いハンドバッグの中には、沢崎澄子[#「沢崎澄子」に傍点]という名刺が二三枚這入っていた。汚れたパフのついた和製のコンパクトが一つ、香《にお》いは中々いい。練紅、櫛、散薬のようなもの。ダンテ魔術団のマッチ、男の名刺が四五枚、紅のついたハンカチが一枚、茶皮の財布には、五銭玉が二つ、外にハトロンの封筒が財布の背中に入っていたが、これには拾円札が一枚はいっていて、封筒には「童話稿料」と書いてあった。
「はア、こりゃ、叔父さんみたいな人が落としたンだよ……」
 沢崎澄子といえばちょくちょく聞いたことのある名前だ――。勘三は、ハトロンの封筒から拾円札を引っぱり出したが、不図あきらめたように、その拾円札をハトロンの封筒の中へしまいこんで、
「ううん」
 と呻ってしまった。
「ねえ、それ拾ったって僕のもんじゃないンだろう?」
「そうさ、この女のひとだって困ってるだろうから、届けてあげなくちゃアねえ……」
 名刺の裏を見ると、渋谷区|幡《はた》ヶ谷本町としてあった。勘三は、不図、寛子と所帯を持った頃の三四年前の幡ヶ谷のアパートの事を思いだすのだ。芝居裏のような歪んだ梯子段《はしごだん》をあがって、とっつきの三畳の間を月五円で借りていたが、その頃は学校の出たてでまだ貧乏しても希望があったが、子供が出来て六年にもなり、自分の書くものが一銭にもならないとなると、海の真中へ乗りだしてしまったような茫然とした気持ちで、どうにも方法がつかない。
「まま乗り出したこっちゃい! ええッ、どうにかなりますわい」
「女のひとンところへ届けに行くの?」
「ああ届けてやることにしよう。まア、待てよ、叔母さんのところへ電話かけて見なくちゃア……」
 勘三は、そう言って、青いハンドバッグの財布の中から五銭玉一つ出して、ガレージのそばの自動電話へ這入って行った。
「もしもし……お菅さん? ねえ、厄介なことなンだ。そうさ。家庭争議を起しちまって、それも啓坊の事なンだけど、君ンところで二三日預かってくンないかねえ……ん、そりゃア困るなア、じゃお蓮《れん》さんの所へ置いとくか、ん、新所帯《しんじょたい》で気の毒だけど、何しろ意地を曲げてしまって、啓坊は可哀想だけど、姉さんがどうしても憎いっていうんだ。――だらしがないンでねえ、あのひとも……」
 勘三が自動電話から出てくると、啓吉が白目を張りあげて大粒の涙を溜めていた。
「心細がらなくったっていいよ、中の叔母さんは事務所の連中と明日はハイキングだっていうんだ。だから小さい叔母さんとこへこれから行ってみよう」
「…………」
「大丈夫だよ、――何だ男の子の癖に」
「ねえ、僕、お母さんとこへ帰りたいや!」
 啓吉はそういって、自動電話の後へ回り、雨に濡れたまま声も立てずに泣き出した。

       八

 蓮子は十七歳の夏、姉の寛子の所をたよって上京して来ると、すぐ姉の良人、松山勘三の友人瀬良三石と結婚してしまって、三人の姉達に呆れた女だと叱られてしまった。で、それっきりこの半年ばかり、どの姉達にも御無沙汰してしまって、三石と夫婦気取りで、その日その日をおくっていたのだ。
 瀬良三石は、洋画家で、毎年帝展へ二三枚は絵を運ぶのであったが、落選の憂き目を見ること度々で、当選したのは、七八年前に軍鶏《しゃも》の群を描いてパスしたと言っているが、これとても当にはならない。当人はヴァンドンゲンを愛していて、青色の人物をよく描くのだが、勘三に言わせると「空家に住む人物」だと酷評するので、三石は、十七歳の蓮子をかっぱらうと同時に、勘三の所へはちっともやって来なくなった。

「啓坊、泣く奴があるか。お前のお母さんもだらしがないけど、お前もだらしがないぞッ」
 勘三は、ひどく空《す》きっ腹で、二三軒回った新聞社が駄目だったし、雨は土砂《どしゃ》降りの吹き流しと来てるし、懐は一文なしの空《から》っけつと、朝から御承知のすけ[#「すけ」に傍点]で出て来ているのだ。で、背に腹はかえられぬの轍《てつ》を踏んで、有楽町のガード横丁まで引っかえして来ると、小八というお
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