怒りと失望と」の活字がないのだ。
「田崎さんはお休みになったのですね。じゃ、外の方に読んで貰いましょう……」
 啓吉はそっと席へついた。脇へ汗がにじんだ。一番前にいる近眼の中原という子が立って読んだ。
「怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけた王は……」
 読本へ目を据えると、ちゃんと自分の正面へその活字が並んでいる。そっと目を上げると、先生は目を閉じて立っていた。啓吉は、一遍も復習しなくても、すらすら読めて行った。まごまごした自分が口惜《くや》しかった。
「はいッ、そのくらいで、少し書取りでもしてみましょうか?」
 先生は、皆に雑記帳を出させた。
「御本はみんな伏せてしまって、ようござんすか、リヤ王はもう八十の坂を越えた……」
 甘い声であった。大勢の鉛筆の音がすっすっと走っている。
「姉二人は既に、ですよ、既にさる貴族に嫁《か》し、妹はかねてフランスの后《きさき》になることにきまっていた……」
 森《しん》と静まり返った廊下をこつこつ誰か歩いて来ている。
 扉が開くと、小使いのお爺さんが、
「先生、この組に田崎啓吉という子供さんはおりますかな?」
 と尋ねた。
「田崎? ああ級長さんで
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