啓ちゃんバットを一つ買っていらっしゃい。解ってるでしょ?」
 と、いった。
 啓吉は銅貨を七ツ握って表へ出て行った。
 硝子戸を開けると、チンドン屋のおはら節が聴えて来る。
「啓吉! 後、きちんと閉めて行くのよッ[#「ッ」は底本では「ツ」]」
 啓吉は、もう路地を抜けて走っていた。
「仕様がないね」
 そう言って、貞子は、瀬戸火鉢の小さい火種をかきあつめたが、寛子が茶を淹れて来ると、
「あのね、また、お願いがあるンだけど……」
 と、躯《からだ》をもんで、その話を切り出した。
 寛子は、押入れの中から、子供の伸一郎の小さい布団を出すと、
「姉さんのまたか」
 といった顔つきで、寝ている礼子へそれを掛けてやった。

       四

 啓吉は賑やかな町へ来た事がうれしかった。路地を抜けると、食物の匂いのする商店が肩を擦り合うようにして並んでいる。豆レコードを売っている店では、始終唱歌が鳴っているし、赤や緑の広告ビラが何枚も貰えた。ピカピカした陳列箱が家ごとに並んでいて、頭でっかちで目の突き出た自分の小さい姿が写るのが恥ずかしかった。
 掌では七ツの銅貨が汗ばんでいる。これで硝子壺は買えないかな。不図《ふと》そんなことを考えて硝子屋の前に立ったが、どの正札も高い。やけくそで、ぴょんぴょんと片脚で溝を飛んで煙草屋へ這入《はい》ると、
「おおい啓ちゃん!」
 と、呼ぶ者があった。
 例の癖で、白目をぎょろりとさせて振り返ると、猫背の叔父さんが立っている。
「母さんと来たのかい?」
「ああさっき」
「何、煙草かい?」
「うん」
 勘三は如何にも草疲《くたび》れきったように、埃のかぶった頭髪をかきあげて、
「いいお天気だがなア」
 とつぶやく。思わず啓吉は空を見上げたが、晴々しい黄昏《たそがれ》で、点《つ》き初めた町の灯が水で濯《すす》いだように鮮かであった。
「煙草一本おくれよ」
「ああ」
 小さい啓吉が煙草を差し出すと、勘三は丁寧に銀紙を破って、新しい煙草に火をつけた。
「叔父さん歩いて来たの?」
「ああ歩いて帰ったンだよ」
「遠いンだろう? 東京駅の方へ行ったの?」
「うん、色んなところへ行ったさ」
「面白かった?」
「面白かった? か、面白いもンか、どこも大入満員でさ、叔父さんの這入ってゆく余地は一寸もないンだよ」
「ふん。割引まで待てば空くンだろう?」
「腹がへって割引まで待てやせんよ。そんなに待ったらミイラにならア……」
 勘三は煙草をうまそうにふうと吐くと、啓吉の大きな顔をおさえて、
「叔父さんが金でもはいったら、一つ何を啓坊に買ってやろうか?」
 と言った。
「本当に、お金がはいったら買ってくれる?」
「ああ買ってやるとも、きんつばでも大福でもさ」
「そんな、女の子の好くようなもン厭だ」
「おンやこの野郎生意気だぞ! そいじゃ何がいいンだ?」
「あのね、あの硝子の平ぺったい壺が要るンだけど……」
「硝子の壺? 金魚でも飼うのかい?」
「…………」
「ま、いい、そんなもンなら安い御用だ。叔父さんが立派な奴を買ってやるよ」
 コロッケ屋では、馬臭い油の匂いがしている。勘三が三尺帯をぐっとさげると腹がぐりぐり鳴った。啓吉はあおむいて、
「叔父さんのお腹よく泣くんだねえ」
 と笑った。
「ふん、誰かみたいだね。叔母さん何か御馳走《ごちそう》してなかったかい?」
「知らないよ」
「そうか、ま、兎に角七八里歩いたンだから腹も泣くさ……」
 チンドン屋が、啓吉達の横をくぐって、抜け道のお稲荷《いなり》さんの宮の中へ這入って行った。

       五

「やア、お帰りッ……どんなだった?」
「駄目だよ……」
「だからさ、記者の頭って晴雨にかかわらないから、そンなものを背負って行ったって駄目なものは駄目よ。第一、私が読んだって面白くないンだもの……」
「あんまり人の前で本当のこというなよおい!」
 寛子は二階からぎくしゃくした茶餉台を持って降りて、濡れ拭布《ふきん》でごしごし拭くと、茶碗をならべ始めた。
「もう御飯?」
「ええこの人が坐れば御飯よ。どうせ歩きくたびれて、腹の皮が背中へ張りついてるンだから……」
「無茶ばっかりいってるよ。……あ、そいで、さっきの事二三日すれば目鼻がつくんだけど、啓坊をひとつ、あずかってくんないかしら、けっして迷惑かけやしないし、明日にでもなったら、少し位とどけられるから……」
「うん、その話ねえ、姉妹争いするの厭だけど、お互いに所帯を持ってるンじゃないの? 始めてなら兎に角、度々の事だし、私達も近々ここを追っ払われそうだし……」
「たった二三日よ、二三日したらお店を開くのだから、貴女にも手伝いに来て貰えるし……」
「ええだけど、いまさら私が頬紅つけて紅茶運びも出来なかろうし、本当いえば、姉さんの話当になら
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