のお返事は……あのねえ、渋谷の叔母さんとこへ、四五日、啓ちゃんおあずけしとくんだけど、いいでしょ?」
「学校お休みするの?」
「ああ四五日お休みしたって、啓ちゃんはよく出来るんだから、すぐ追いつくわよ。叔母さんとこでおとなしく出来るウ?」
「ああ」
「叔母さんが色んな事聞いても、判ンないっていっとくのよ。――お前は莫迦《ばか》なところがあるから、すぐお喋《しゃべ》りしてしまいそうだけど、いい? 判った?」
「ああ」
「ああって本当に御返事してンの? 煮えたンだか煮えないンだか訳がわからないよ、啓ちゃんのお返事は……」
 小道をはずれると、新開地らしい、道の広い新しい町があって、自動車がひっきりなしに走っていた。啓吉には三和土《たたき》の道が、まるで河のように広く見える。
「さあさ、自動車よ、礼ちゃん眠っちゃ駄目よ、重いじゃないのさア」
 啓吉が見上げると、母親の腕の中で、礼子が頭をがくんとおとしていた。耳朶《みみたぶ》に生毛《うぶげ》が光っていて、唇が花のように薄紅く濡れている。啓吉とは似ても似つかない程、母親に似て愛らしかった。――貞子は、小奇麗な自動車を止めた。ふわふわしたクッションに腰を掛けると、半|洋袴《ズボン》の啓吉は、泥に汚れた自分の脚を、母親に気取られないようにしては、唾でそっとしめした。
「いいお天気ねえ、運転手さん! 横浜までドライブしたら、どの位で行くの?」
 髪を奇麗に分けた、衿足《えりあし》の白い運転手が、
「四五円でしょうね」
 と、いった。
「そう、安いものね」
 金もない癖に、貞子は飛んでもないおひゃらかし[#「おひゃらかし」に傍点]をよく言うのであったが、いまも、片方の手は袂《たもと》へ入れて、心の中で、とぼしい財布の中から、一つ二つ三つ四つと穴のあいた拾銭玉を数えて、残りは、電車で帰る切符代がやっとだとわかると、先きは先きといった気持ちで、走る町を眺めながら、どんな口上で啓吉をあずけたものかと、もうそれが億劫《おっくう》で仕方がなかったのだ。
「いつか、叔母さんと行ったお風呂屋があるね」
 啓吉が吃驚《びっくり》するような大きな声で言った。
「運転手さん! この辺でいいのよ」
 自動車がぎいと急停車すると、よろよろと啓吉は母親の膝へたおれかかった。

       三

 コロッケ屋と花屋の路地を這入《はい》ると、突き当りが叔母の寛子の家で、溝板《どぶいた》の上に立つと、台所で何を煮ているのか判る程浅い家である。
 入口のコロッケ屋は馬鈴薯の山ばかり目立って、肉片がぶらさがっているのをかつて見たことがない程貧弱な構えで、啓吉が最初に寛子の家へあずけられた時、六ツで拾銭というコロッケをよくここへ買わされにやられたものであったが、揚鍋が小さいので、六ツ揚げて貰うには中々骨であった。
 右側の花屋は、これは中々盛大で、薔薇《ばら》や百合《ゆり》やカアネーションのような、お邸好みの花はなかったが、菊の盛りになれば、一握り五銭位の小菊が、その辺の二階住いや、喫茶店や、下宿の学生達に中々よく売れて行った。寛子も花が好きで、一寸した小銭が出来ると、花屋へ出掛けては半日も話しこんで、見事な雁来紅《はげいとう》を何本もせしめて来ることがある。
 貞子は、この貧しい妹に、自動車から降りるところは見せたくなかったのであろう。風呂屋の前で自動車を降りると、すっかり眠ってしまった礼子をかかえて、花屋とコロッケ屋の小さい路地を曲った。
「いる?」
「あら、いらっしゃい! 瘤《こぶ》つきで御入来か……」
「相変らず瘤つきさ、勘三さんいるの?」
「ううん、朝がた、あんまりお天気がいいからって、今日のようなお天気なら雑誌記者も機嫌がいいに違いないって原稿背負って行ったンだけど……」
「まア、背負って?」
「あの人が原稿売りに行く格好ったら、背負ってるって方が当ってるわよ、こう猫背でさア、背中の方へまで原稿詰めこんで、私一度でいいから、うちのひとがどんな格好で原稿ってものを売りつけてンのか見て見たいわ。一遍にあいその尽きるような風なんだろうと思うンだけど……」
「そんな事いうもンじゃないわよ。昨日や今日一緒になッたンじゃなし、子供もあってさ……」
 二階が六畳一間、階下が四畳半に二畳の小さい構えであったが、道具というものは、寛子の鏡台位のもので、勘三の机でさえも、原稿用紙が載っていないと、すぐ茶餉台《ちゃぶたい》に持って降りられる程な、抽斗《ひきだし》のない子供机で、兎に角何もない。
「お茶|淹《い》れましょうかね」
「おやおや珍しい、瓦斯も電気も御健在ね」
「莫迦《ばか》にしたもンじゃないわ、この間、一寸大金が這入ってさ……」
「へえ、何時のこと、それ?」
 貞子は礼子を寝かしつけると、取っておきの電車代をそっとつまんで、

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