ないンだから……」
「信用がないのねえ、……勘三さん、一つ啓坊二三日あずかって戴けません? 一生のお願いだけど……」
 勘三は、唇紅の濃い姉の姿をさっきからじろじろ眺めていた。心のうちで、三十にもなれば後家も中々辛いだろうと、変に同情してしまっている。
「ま、姉さんが、それでうまく行くんなら置いてらっしゃい」
 と、言うより仕方がなかった。
 眠っている礼子を背負って、姉の貞子が電車賃も借りずに帰って行くと、寛子は、わっと声をたてて泣いた。
「あんなひとってありゃアしない! 自分の勝手の時ばかり子をあずけに来てッ、貴方がなめられているからじゃないのウ」
「何もなめら[#「なめら」に傍点]れてやしないよ。女房の姉さんじゃないか、どうしても駄目ですとはいいきれないよ」
「莫迦にされてンのよッ!」
「莫迦にされたっていいじゃないかッ、泣く奴があるか、莫迦ッ! 早く飯にしろッ」
 勘三は懐《ふところ》から色々な原稿の束を出すと、一枚を引き破ってばりッと鼻をかんだ。啓吉は小さくなってそれを見ていた。伸一郎は遊びに行っているのかな、早く帰らないのかなと、じいっと坐ったまますすりたい鼻もようすすらないでいる。
 四人も姉妹がいて、どれも命細々長らえている生活なのかと思うと、寛子は台所をしていても、はアと溜息が出た。
「ま、仕方がないよ、いまに俺だってこの状態じゃいないし、根気でゆくより仕様がないよ。何しろ文士志望が五万人ってンだから、骨も折れるさ……」
「そんな呑気《のんき》な事いってられないわよ。伸ちゃんだって来年から学校だし、土方でも何でもして働いてくれた方がよっぽどうれしいわ。本当に!」
 勘三は大の字になった。啓吉は益々固くなって、散らかっている煙草の銀紙をひろった。
「伸ちゃん! 御飯よウ、伸公ッ」
 台所の硝子戸が開いて、癇高い声で、寛子が子供を呼んでいる。

       六

 雨がしょぼしょぼ降って薄暗い。一足飛びに冬が来たような陽気だ。
「貴方あずかるといったのだから、貴方がこの子を始末して下さい」
 それが喧嘩の原因で、勘三はまた原稿を懐にして、
「じゃア、お前の気に入るように、啓坊をお菅君の所へでも置いて来るよ」
 と勘三は啓吉を連れて渋谷駅から省線に乗ったのであった。坊主憎けりゃ袈裟《けさ》までという言葉にうなずきながら、電車に揺られていても、勘三は何も彼も面白くなかった。
「おい啓坊! 中の叔母さんのとこへ行ってもおとなしくしてるンだぞ、ええ?」
「うん」
「啓坊の母さんがなってないから、まるで啓ちゃんが宿無し猫みたいじゃないか、ううん?」
「…………」
「さて、叔父さんは雑誌社へ寄って、叔母さんの務め先に電話を掛けてやるから、叔父さんが出て来るまで、外で待ってるンだよ」
 有楽町で降りて、銀座裏の雑誌社まで歩くと、啓吉のズックの運動靴は、水でびたびたして来た。赤や緑の服を着た珍しい女達が通っている。
「大きな町だろう?」
「…………」
 雑誌社の前へ来ると、勘三は啓吉に雨傘を高くかかげさして、身じまいをなおすと、一つの原稿を封筒へ入れて、
「じゃ傘さして待ってな、あっちこっち行くンじゃないよ、すぐ出て来るから……」
 馬に乗ったような意気込みで、扉を開けて這入って行ったが、勘三がビルディングの中へ消えてしまうと、啓吉は寒さと心細さで、何度すすっても鼻水がこぼれた。ここから、母親のそばまではもう帰れない程遠いのではないかと思った。舗道の三和土《たたき》へ当る雨が、弾《は》ねあがって、啓吉の裾へ当って来る。傘が大きいので、啓吉の姿が見えない程低く見えた。
 街には昼間から灯がついていて、人力車が一台ゆるゆる走っていた。ラジオが聴える。がちゃがちゃした音楽だった。
「まだかな」
 啓吉は悄気《しょげ》て大きな傘をブランブラン振った。
「おい啓坊!」
 啓吉はほっとして傘を持ちあげてビルディングの玄関にいる勘三のそばへ傘を持って走った。
「ここも大入満員だ」
「どんな人がいるの?」
「叔父さんみたいな立派な人が沢山いるンだよ」
「…………」
 啓吉が黙っているので、勘三も黙ったままぽつぽつ歩いた。「さてどこへ行くか」勘三は不図立ち停まって、封筒から原稿を出すと、新しい原稿を出して、その封筒へ入れ替えた。
「今度は新聞社だ」
「新聞社?」
「ああ」
 いよいよ啓吉の靴は重くなった。裸の脚ががたがた震えた。マークのはいった旗をつけた新聞社の自動車が、幾台も並んでいる所へ出た。勘三はそこで物馴れた容子でのこのこ階段をあがって行った。啓吉は草臥《くたび》れてしまって、入口の石段に傘をすぼめて腰をかけた。雨がにわかにひどくなった。自動車の旗がべろんと濡れさがっている。舗道は雨で叩きあげられて乳色に煙をあげていたが、新聞社の自動車
前へ 次へ
全19ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング