が一台一台どっかへ滑って行くと、啓吉の目の前に小さい女のハンドバッグが陽に濡れて叩かれているのが見えた。

       七

 兎に角、二人はそっと濠端の方へ歩いて行った。
 雨は益々ひどくなって、勘三の差しかけている蝙蝠《こうもり》傘が雨にザンザン叩かれている。ペンキ塗りの空家になったガレージの前へ来ると、
「啓ちゃん! それ出して御覧よ」と、勘三が立ちどまった。
「誰も来てないかい?」
「うん、誰も来てないよ」
 啓吉が蝙蝠傘を差しかけると、裾をたくしあげた勘三は啓吉の拾った青いハンドバッグを開いてみた。啓吉は背伸びをして、叔父の手元を見上げている。
「はいっているかい?」
「まてよ……」
 青いハンドバッグの中には、沢崎澄子[#「沢崎澄子」に傍点]という名刺が二三枚這入っていた。汚れたパフのついた和製のコンパクトが一つ、香《にお》いは中々いい。練紅、櫛、散薬のようなもの。ダンテ魔術団のマッチ、男の名刺が四五枚、紅のついたハンカチが一枚、茶皮の財布には、五銭玉が二つ、外にハトロンの封筒が財布の背中に入っていたが、これには拾円札が一枚はいっていて、封筒には「童話稿料」と書いてあった。
「はア、こりゃ、叔父さんみたいな人が落としたンだよ……」
 沢崎澄子といえばちょくちょく聞いたことのある名前だ――。勘三は、ハトロンの封筒から拾円札を引っぱり出したが、不図あきらめたように、その拾円札をハトロンの封筒の中へしまいこんで、
「ううん」
 と呻ってしまった。
「ねえ、それ拾ったって僕のもんじゃないンだろう?」
「そうさ、この女のひとだって困ってるだろうから、届けてあげなくちゃアねえ……」
 名刺の裏を見ると、渋谷区|幡《はた》ヶ谷本町としてあった。勘三は、不図、寛子と所帯を持った頃の三四年前の幡ヶ谷のアパートの事を思いだすのだ。芝居裏のような歪んだ梯子段《はしごだん》をあがって、とっつきの三畳の間を月五円で借りていたが、その頃は学校の出たてでまだ貧乏しても希望があったが、子供が出来て六年にもなり、自分の書くものが一銭にもならないとなると、海の真中へ乗りだしてしまったような茫然とした気持ちで、どうにも方法がつかない。
「まま乗り出したこっちゃい! ええッ、どうにかなりますわい」
「女のひとンところへ届けに行くの?」
「ああ届けてやることにしよう。まア、待てよ、叔母さんのところへ電話かけて見なくちゃア……」
 勘三は、そう言って、青いハンドバッグの財布の中から五銭玉一つ出して、ガレージのそばの自動電話へ這入って行った。
「もしもし……お菅さん? ねえ、厄介なことなンだ。そうさ。家庭争議を起しちまって、それも啓坊の事なンだけど、君ンところで二三日預かってくンないかねえ……ん、そりゃア困るなア、じゃお蓮《れん》さんの所へ置いとくか、ん、新所帯《しんじょたい》で気の毒だけど、何しろ意地を曲げてしまって、啓坊は可哀想だけど、姉さんがどうしても憎いっていうんだ。――だらしがないンでねえ、あのひとも……」
 勘三が自動電話から出てくると、啓吉が白目を張りあげて大粒の涙を溜めていた。
「心細がらなくったっていいよ、中の叔母さんは事務所の連中と明日はハイキングだっていうんだ。だから小さい叔母さんとこへこれから行ってみよう」
「…………」
「大丈夫だよ、――何だ男の子の癖に」
「ねえ、僕、お母さんとこへ帰りたいや!」
 啓吉はそういって、自動電話の後へ回り、雨に濡れたまま声も立てずに泣き出した。

       八

 蓮子は十七歳の夏、姉の寛子の所をたよって上京して来ると、すぐ姉の良人、松山勘三の友人瀬良三石と結婚してしまって、三人の姉達に呆れた女だと叱られてしまった。で、それっきりこの半年ばかり、どの姉達にも御無沙汰してしまって、三石と夫婦気取りで、その日その日をおくっていたのだ。
 瀬良三石は、洋画家で、毎年帝展へ二三枚は絵を運ぶのであったが、落選の憂き目を見ること度々で、当選したのは、七八年前に軍鶏《しゃも》の群を描いてパスしたと言っているが、これとても当にはならない。当人はヴァンドンゲンを愛していて、青色の人物をよく描くのだが、勘三に言わせると「空家に住む人物」だと酷評するので、三石は、十七歳の蓮子をかっぱらうと同時に、勘三の所へはちっともやって来なくなった。

「啓坊、泣く奴があるか。お前のお母さんもだらしがないけど、お前もだらしがないぞッ」
 勘三は、ひどく空《す》きっ腹で、二三軒回った新聞社が駄目だったし、雨は土砂《どしゃ》降りの吹き流しと来てるし、懐は一文なしの空《から》っけつと、朝から御承知のすけ[#「すけ」に傍点]で出て来ているのだ。で、背に腹はかえられぬの轍《てつ》を踏んで、有楽町のガード横丁まで引っかえして来ると、小八というお
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