ですかねえ?」
啓吉は美しい副級長に覗きこまれると、とまどいした鳩みたいに目をぱちくりさせた。
あっちこっちの机が段々賑やかになって来て、各々音読を始め出したが、田口七郎兵衛は復習が積んでいるのか白雲頭を振り立てて大きい声を振りあげて読んだ。
「……怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけ果てた王は、我にもあらず荒野の末にさまよい出た。その夜は風雨にともなって雷鳴電光ものすさまじい夜であったッ……」
「何? ちょっと、自慢そうに、声だけたててンのよ。意味なンかわかりゃしないのよ、このひと……」
饗庭芳子が、舌を出して田口七郎兵衛をからかった。
「何だとッ! もう一遍いってみろッ、今宵の虎徹《こてつ》は血に飢えている、目に物見せてくれるぞッ!」
と言うが早いか、飛鳥のように、饗庭芳子に飛びついて行ったが、机が邪魔で、田口七郎兵衛はついに机の上に泥靴のまま立ち上った。丁度、校庭では始業の鐘が、ガランガランと涼しく鳴り始めている。
二十
朝礼の体操も終って、校長先生の訓話が始まる頃、葉のまばらになった校庭の桜の梢に、もず[#「もず」に傍点]がきゃっきゃっといった鳴声で呼びたてた。もず[#「もず」に傍点]は、木のてっぺんで鳴く鳥だと啓吉は誰かに教わったことがあった。よくみていると、初秋に飛んで来るみそさざいが、ちょん、ちちちっと気ぜわしく飛びはねているが、死んだ田舎の祖母が、「みそさざいが来ると、雪が降るだよ」と言った事を思い出して、秋はいいなア、と啓吉は思わず空を見上げた。
「おい、外見《よそみ》をしてはいかん!」
背中で手を組んでいる体操の教師が、後からやって来て啓吉の後頸をつついた。皆、くすくすと笑った。啓吉は赤くなってうつむいた。
朝礼が済むと、啓吉は自分の級の先頭に立って教室に這入って行った。
びゅうびゅう口笛を吹く者や、唱歌をうたう者、読本と首っ引きの者、復習をしてなかったと、泣きそうになっている者や、まるで教室は豆が弾《は》ぜたようだ。啓吉は気が弱くて、
「静粛!」
という声がかけられなかったのだが、不意に副級長の饗庭芳子が、
「皆さん! 静粛にして下さいッ!」
と呶鳴った。
一寸の間静かになったが、誰かが隅の方で、
「凄げえなア」
と感嘆の声をもらすと、津浪のように皆がどっと笑い出した。とりとめようもない程、笑い声が続いた。啓吉は、益々小さくなった。田口七郎兵衛は教壇に上って、
――静カニセヨ――
と白墨で黒板に書いた。すると、また笑い声がもり返って来て、風呂屋のように机を叩いて唄うものが出て来た。
女生徒達の方では、
「困るわねえ、男の生徒ってきらいだわ……」
とぐちぐちこぼし始めたが、やがて、饗庭芳子は何を思ったのか、つかつかと教壇に上って、
――男のセイトキライ――
と書いた。
窓が開いて、ひときわ空が高く澄んでいるせいか、黄いろいジャケツを着た饗庭芳子は、輝くように美しく見えた。ガラス越しに、頭髪が繻子《しゅす》のように光っている。
饗庭芳子が教壇から降りようとすると、田口七郎兵衛が教壇へどんどん上って行って、
――オンナノセイトスキ――
と書いた。皆どっと笑った。
「あら、先生よッ!」
「先生がいらっしたよ、饗庭さん早くウ!」
扉がすうっと開いた。
田口七郎兵衛は矢庭に黒板消しをつかんだが間にあわなかった。饗庭芳子はそっと机に帰った。
啓吉は立ちあがると、
「起立!」
と号令をかけた。
白雲頭の田口七郎兵衛は黒板消しを持ったまま不動のしせいをとった。
無雑作に衿元で髪をつかねた色の白い先生は、黒板の字を見ると、急に顔を赧めて、
「貴方がこんないたずらを書いたの?」
と田口七郎兵衛に訊いた。
田口七郎兵衛は悄気《しょげ》てしまって黙っていた。先生は、また――男のセイトキライ――と書かれている方を見て微笑しながら、
「さア、その黒板消しを先生にお返して、席におつきなさい」
と、静かに教壇に上って行った。啓吉には、新しい先生がひどく神々しく見える。田口七郎兵衛は頭をすぼめて降りて行ったが、七郎兵衛が席につくと、啓吉は大きい声で、
「着席!」と号令した。
「貴方が級長さんですか?」
啓吉は赧くなってうなずいた。先生は、黒板の方へ向くと、まず饗庭芳子の書いた――男のセイトキライ――から静かに消して行った。
二十一
「復習して来ましたか?」
先生は黒板を消し終ると、机の上の本をパラパラと繰って、
「饗庭さん、第十四課の六十六頁を開けて、四行目から読んでみて下さい」
饗庭芳子は立ちあがると声を張りあげて、
「今日はお前たちに一つ聞いてみたい事がある。お前たちのうちで誰が一番この父を大事に思ってくれるか。わしはそれが知りたいのだ
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