。先《ま》ず姉のゴネリルからいってみよ。と尋ねた。……」
張りのあるいい声で、啓吉はうっとりと聴きとれていた。何時か、饗庭芳子が、学芸会の席で、鎌倉[#「鎌倉」に傍点]を暗誦して読みあげたことがあったが、実にいい声であった。
[#ここから2字下げ]
由比の浜辺を右に見て
雪の下道過行けば
八幡宮の御やしろ
[#ここで字下げ終わり]
のあたりなどは、彼女の得意のところらしく、啓吉はいまでも饗庭芳子の振袖姿を思い出すのだ。
「はア、そこンところで次に級長さんに読んで貰いましょう。級長さんは、何ていうお名前?」
「…………」
啓吉が赧くなっていると、饗庭芳子が、大人びた物いいで、
「田崎啓吉さんておっしゃいます」
と言った。
「そう、田崎さん、ではその七十二頁の、饗庭さんの次から読んで御覧なさい……」
すると立ちあがった啓吉は、すっかり周章《あわ》てて、何行目だったろうと、七十二頁を繰ったが、やたらに、「王は男泣きに泣いた」というところだけが目にはいって来た。
誰か後の方で、
「怒りと失望と後悔と……」
と、いってくれている。啓吉は益々うろたえてしまった。どの行を見ても、「怒りと失望と」の活字がないのだ。
「田崎さんはお休みになったのですね。じゃ、外の方に読んで貰いましょう……」
啓吉はそっと席へついた。脇へ汗がにじんだ。一番前にいる近眼の中原という子が立って読んだ。
「怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけた王は……」
読本へ目を据えると、ちゃんと自分の正面へその活字が並んでいる。そっと目を上げると、先生は目を閉じて立っていた。啓吉は、一遍も復習しなくても、すらすら読めて行った。まごまごした自分が口惜《くや》しかった。
「はいッ、そのくらいで、少し書取りでもしてみましょうか?」
先生は、皆に雑記帳を出させた。
「御本はみんな伏せてしまって、ようござんすか、リヤ王はもう八十の坂を越えた……」
甘い声であった。大勢の鉛筆の音がすっすっと走っている。
「姉二人は既に、ですよ、既にさる貴族に嫁《か》し、妹はかねてフランスの后《きさき》になることにきまっていた……」
森《しん》と静まり返った廊下をこつこつ誰か歩いて来ている。
扉が開くと、小使いのお爺さんが、
「先生、この組に田崎啓吉という子供さんはおりますかな?」
と尋ねた。
「田崎? ああ級長さんでしょう、いますよ」
鉛筆の音が止まった。啓吉はどきりとした。
「一寸お母さんが、急用があるそうでなア、周章てて来ていなさるで……」
「そう、じゃそっと行ってらっしゃい」
先生は立ち上った啓吉の肩を押して、扉の出口へ連れて行った。啓吉が出て行くと、先生はまた声を張り上げて、
「領地をゆずる日に、王は娘たちを面前に呼んで……」
と愉しそうに朗読するのであった。
二十二
学校へなんぞ来た事のない母親が、何の用事でわざわざ啓吉を尋ねて来たのか、啓吉は不安で仕方がなかった。
小使い部屋では貞子が、大火鉢にしゃがみ込んであたっていた。
「まア、お使いだてして、本当に済みません」
小使いに世辞をいうと、貞子はすぐ立ちあがって、
「啓ちゃん、一寸」
と、啓吉を、外へ連れ出した。校庭では二組ばかりの体操があった。ポプラの樹の下に来ると、貞子は白い封筒を出して、
「ねえ、お母さまね、暫くの間だけど、九州へ行って来なくちゃならなくなったの。おじさん、御商売が駄目になってしまってねえ、とても、大変なのよ。それで、一寸の間だけれど、この手紙持って、寛子叔母様のところへ行っているの、伸ちゃんのお守りをしてあげて、少しの間だからおとなしく待っていらっしゃい、判った? ええ」
「…………」
「今度は啓ちゃん、連れてゆけないのよ。ねえ……」
「遠いの?」
「ああ遠いの、だけどすぐに帰って来るから……この手紙大事なのよ、いい?」
啓吉はうなずいた。貞子は流石にしょんぼりしている啓吉を見ると、何となく心痛いものを感じたが、
「じゃ、お教室へ行ってらっしゃい。母さんが、いいものを啓ちゃんに送ってあげようね」
「学校、またお休みすンの?」
「さア、叔母様に相談して、あの近くの学校へ行くようにしてもいいでしょ」
「帰れっていわない?」
「帰れっていったかい?」
「ううん、いわないけど……」
「それ御覧、大丈夫だよ、それで勘三叔父さんは、啓ちゃんと仲良しだものねえ」
体操の組では綱引きが始まった。オーエス、オーエスと叫び声があがっている。
貞子が帰って行くと、啓吉は白い封筒を襯衣のポケットへ入れて教室へ帰って来たが、教室ではリヤ王が劇に組まれて、饗庭芳子が、男の声でリヤ王を演じていた。饗庭芳子のリヤ王があんまりうまいので、啓吉が教室へ這入って来ても誰も振りむかなかった。
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