うよッ」
柔かい素足が、玄関の大きい下駄の上に降りたかと思うと、啓吉は猫の仔のように衿首をつかまれたまま引きずられて、三和土《たたき》の上へずどんと転んでしまった。転ぶと同時に、思いがけない大声が出て、涙がほとばしるように溢れた。貞子も、啓吉の大声に吃驚したのか、一寸ギクッとしたかたちであったが、格子をぴしッと閉めると、泣いている啓吉を引き起して、
「大きななり[#「なり」に傍点]して莫迦だね、もういいよ。帰されたもの仕方がないじゃないかね。本当に莫迦で仕様がないよ……さ、お靴をぬいでお上り、ええ?」
遠くで子供達の歌声が聞えて来る。家の横のポプラの落葉が、格子戸の硝子にばらばらと当って墜ちてゆく。
声をあげて泣いていると、百のお喋りをしたよりも胸がすっとして、啓吉は呆れてつっ立っている母の足元で、甘えるように、おおんおおんと声をたてて泣いた。
「どうしたンだ?」
茶の間から、鼻の頭がぎらぎらしている男が出て来た。その後から、妹の礼子が、
「お兄ちゃん泣いてるよ」
と、走って男の手へつかまった。
「大きい癖に、から[#「から」に傍点]、意気地がなくてねえ……」
流石に、貞子も気がとがめたのか、「ああ」と溜息をついて上へ上った。
「おい、小僧! さ、泣き止めてッ、ええ? 手でも洗って、礼ちゃんと遊んでお出でよ」
啓吉は泣く事に草臥《くたび》れたけれども、声をたてることは気持ちのいいことなので止めなかった。不思議なことに声を立てていると、涙があとからあとから溢れ出て来る。
「まア、いいわ、放っときよ……」
貞子は、男にそう言われると、渋々奥へ這入って行ったが、礼子だけは、
「兄ちゃん、泣かなくてもいいよ」
と大きな下駄をはいて、啓吉のそばへしゃがんだ。啓吉はうるさいよ[#「うるさいよ」に傍点]といった格好で睨《にら》みつけた。
「莫迦野郎!」
啓吉がそっと礼子の身体を押した。両手に五銭玉を一つずつ握っていた礼子は、ぐらぐらする拍子に、その五銭玉二ツを三和土の上へ投げ散らした。
啓吉はそれを足で蹴った。
「厭よッ! 厭だアよッてば……」
礼子が立ちあがって頬をしかめそうになると、啓吉は、矢庭《やにわ》にその五銭白銅を拾って、がらがらと格子を開けて戸外へ出て行った。
「兄ちゃアん! 莫迦ヤロッ!」
礼子が地団駄《じだんだ》を踏んで啓吉よりも高い声をあげて泣きたてた。
十九
どっかで野球でもしているのか、カアンと球を打つ空鳴りがしている。啓吉は久し振りにランドセールを肩にして勇んで歩いた。
校門をくぐると、校庭の蔓薔薇《つるばら》などは虫食いだらけの裸になってしまって、木という木はおおかた葉を振り落していた。
ピアノの音が聴えてくる。教室に這入ると、女の子達はてんでに宿題のリヤ王物語を読んでいた。啓吉の学年[#「学年」は底本では「学生」]は三級もあって、転校者の多い級だけ男女混合であった。副級長の饗庭《あえば》芳子という美しい娘が、啓吉を見てにこにこ立ちあがって来た。
「田崎さん、随分お休みなすったのね、今日は試験があンのよ……第十四課のリヤ王物語ね、あれを読まされるのよ……」
啓吉ははにかんで、ランドセールを降ろすと、さっそく読本を出して見た。まだ鐘が鳴らないので教室は動物園のようににぎやかだった。
「田崎君! どっか行ったのウ?」
「この間ねえ、飯能《はんのう》へ遠足だったンだよ……」
男の子達も、啓吉のそばへ集って来た。
啓吉は級長だったので、留守の間の事を、面白そうにがやがやとお喋りに来るのだ。
「ねえ、そいから先生がお変りンなったの、女の先生よ。とてもいい先生なのよ……」
「西内先生は?」
「神戸の方へいらっしたンですって……」
女の子達に身近く囲まれると、啓吉は赧くなってポケットに両手をつっこんだ。突然ひょうきんな田口七郎兵衛という酒屋の子供が、
「第十四課、リヤ王物語、リヤ王はもう八十の坂を越えた生れつき烈しい気性の上に、年とともに老の気短さが加わってちょっとした事にも怒り易くなっていた。それに近来はめっきり元気が衰えて、もう政務にもたえられなくなって来た。王にはゴリネル、リガン、コルデリヤという三人娘があった……」
と、自慢そうに朗読を始めた。すると、副級長の饗庭芳子が、
「ああら違うわよッ、ゴリネルじゃないでしょ? ゴネリルにリガンにコーデリヤでしょ。田口さんは早口だから駄目だわ」
「へッ! だ。生意気いってらア、ゴリネルだっていいんだよだ。早く読んじまえば判りゃしないさ……」
「まア、憎らしい、私、違いますって、松本先生に申しあげるからいいわ……」
「女の癖に何だい! 生意気な、白目の大将が好きなンだろう」
「しどいわねえ、ええいいわよ! いいわよオだ……何
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