、ストルムの詩をうたった。妻にはない若い女の匂いだ。伸一郎はぽかんとして父親の容子を見ている。
「貴方ン! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
急《せ》わしく上って来そうな寛子の声だ。勘三は、矢庭にハンドバッグを懐へしまった。何時も原稿の束をしまいつけているので、ふくれた懐も目立たない。
「へえ! 昨夜はどこへ泊ったンだ? 新聞社のところから急にいなくなったじゃないかッ」
勘三は目玉をパチパチさせて階下へ降りて来るなり、啓吉に合図をする。で、啓吉は、叔父と別れてからの話をしなければならない。
「へえ、随分親切な人もあるもンね。尺八を吹く人なのかい?」
「…………」
「他人《ひと》様だってそンな親切なお方があるンだのに、手前エはどうだ。血のつながった甥じゃアないかよ。ええ? それをさア、姉き[#「姉き」に傍点]へ意地を張って、方々へ預けようとするから、こんな間違いがおきるンだ」
「そンなことはどうでもいいわ……何も、啓坊がいなくなったからって、酒を呑んでへべれけになって帰る事はないでしょう……あとで、どうなのか、啓ちゃんに聞いてみますよ、怪しいもンだからねえ」
「余計なことを訊かなくてもいいよ。子供は天真なのだからね……」
「へへッだ! ――だって、啓ちゃんは動物園へ連れてってやっても、猿同士がおんぶしあってる事ちゃんと識ってて、顔を赧《あから》めるンですもの、もう天真じゃないわよ」
「莫迦ッ! 場所を考えて言えよ。――早く啓坊に飯でも食べさせてやりッ」
「白ばくれて、何ですかッ、私が何にも知らないと思って……皆知ってますよ」
「知ってたらなおいいじゃないか、俺が虎になって帰ったからって、何も手前エが知ってるッて威張るこたアないだろう………」
「兎に角いいわよ、後で啓吉に訊いてみますからねえ……」
「啓吉! こんな莫迦な、叔母さんに余計なことをいうと承知しないよ。いいかい、ええ? そのかわり叔父さんが金魚鉢買ってやるよ、欲しいっていったろう……」
「まア、そンな金あったら、伸ちゃんの襟衣《シャツ》を買ってやりますよ。啓吉啓吉なンて何ですか! 弱味があるンでしょう? ――本当に、死んだ義兄さんそっくりで、梟《ふくろう》みたいな目玉……啓ちゃんには罪はないけど、厭になっちゃうわ……」
「あ、あ、秋日和《あきびより》で、菅公なぞはハイキングとしゃれてるのに、朝から夫婦喧嘩か、こっちが厭になるよ。――伸ちゃんもお出でッ、襯衣買ってやるよ」
勘三は、寛子の容子をうかがっている啓吉の頭を押して伸一郎を背負うと、どんどん路地の外へ出て行った。
「いいかい、叔母さんに何でも黙ってンだよ」
「…………」
「おい、こら、判ったのか、判らンのか?」
「うン、でも、あのお金を使っちゃったんだろう?」
「ううんいいんだよ。叔父さん明日は沢山お金が這入るンだから返しに行くよ。解ったろう……」
硝子屋の前には、青色で染めた硝子鉢が出ていた。啓吉はそれを指でおさえて、
「これがいい」
といった。
十二
金魚鉢は青くて、薄く透けていて、空へ持ちあげると雲が写っている。啓吉には素晴らしい硝子の壺だ。啓吉はそれを覗き眼鏡にして、拡ろがった空を見ながら、
「ねえ、空はどうしてあんなに青いの?」
「空かい?」
「うん」
「さア、何かで空の青いことを読んだが……大気の中にいる微粒子ってものがさ、水蒸気になってさ、その微粒子の沢山な量が、むくむく重なると、あンなに青い空になるンだと……」
「微粒子って青いものなの?」
「面倒だな、叔父さんだって、本当は覚えてやしないよ。微粒子ってのはねえ……ほら、海の水だって掬《すく》ってみると青くないけど、どっさりだと青くなるじゃないか、ねえ、お前のその鼻水もそうだよ……」
啓吉はずるりと鼻汁をすすった。
「さアて、金魚鉢買ったら洋品屋にまわって、伸公の襯衣《シャツ》を買ってやらなくちゃ、叔母さん怒るからねえ」
「あの青い袋のお金で買うの?」
「余計なことをいわンでもいいよ。叔父さんがちゃんと明日は持って行くンだから……」
伸一郎は蜂の腹のようなだんだらの襯衣を買ってもらった。
「さア、伸公、ずいずいずっころばしを唄って帰ろうや」
啓吉達が勇んで路地の中へ帰って行くと、寛子は開けっぱなしの玄関に立っていて、気味の悪い程な機嫌のいい顔でニコニコ笑ってつっ立っていた。
「貴方!」
「何だッ」
勘三は故意に強い顔をして見せた。
「貴方ッ、三百円三百円……三百円よ」
「何のことだ、周章《あわ》てくさって、ええ?」
「懸賞が当ったのよ」
「ホウ……どこだい?」
「まア、呑気だ。そんなに方々心当りがあるの?」
「余計なことをいいなさんな。亭主を何時も莫迦にばかりしているから亭主だって、方々へ心当りをつけとくンさ……」
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