けでは食ってゆけないらしく、時々、酒場の多い街裏を流して歩いてゆくのであろう。
「明日は鱈腹《たらふく》飯を食って、お母さんとこへ帰ってきゃいいよ。なア、おい、中野の駅まで行けば道が判るのかい?」
 啓吉はうなずいた。
 酔っぱらった叔父をおでん屋へのこして来たままどこを歩いたのか、尺八を吹く男に拾われてこんなところへ来たのさえ不思議で仕方がない。礼子ちゃんは寝てるかな。母さんも眠ってるだろう……啓吉は、あの男と母親が、愉しそうに笑いあっているのではないかと思うと、自分が余計者のようで不図涙が出た。
「おい、ほら鮭が焼けたぜ」
 いっぱい飯の盛られた飯茶碗を胸の辺へかかえ上げると押入の方で蟋蟀《こおろぎ》がりいい……と鳴き始めた。
「ああッ」
 啓吉はごくんと飯の塊を飲み込み、植木鉢の下に伏せた、雌を呼ぶ蟋蟀の物哀しい声を何気なく思い出した。

       十

 飯を食べた。布団の中へもぐり込んだ。
 深夜になると、何台も自動車が帰って来るようで、ギイッと階下の車庫の中へ滑り込む自動車のブレーキの音がしていた。啓吉は色々な夢を見た。
「この子は薄目を開けて眠るので気味が悪いわ」
 と、男が泊ってゆく度、母親が弁解していたが、薄目を開けて寝ると、眠っていても声をたてる事がある。
 朝になって啓吉は目覚めて見ると、夢に見たものが、部屋いっぱい散らかっていた。自分のそばには運転手や助手達が三四人も大鼾《おおいびき》で寝ていた。隆山は寝床に腹這ったまま手紙のようなものを書いている。
「どうだ! ゆんべ[#「ゆんべ」に傍点]は寝られたかい?」
「…………」
「中野まで送ってゆくかな。安心しな」
「ねえ、ここはどこ?」
「ここか、ここは神田|美土代町《みとしろちょう》さ……」
 手紙を書き終ると、隆山は厚い唇で封をしめして、「さて、これで田舎の神さんも御安心だ」と、立ちあがるなり、裏の小窓を開け、尿を二階から飛ばした。
 寝ていた啓吉にはその小窓がよく見えた。雲の去来を見ていると、啓吉は、雲が一つ一つ生きているように思えた。
「なぜ、雲は浮いたり走ったりするの?」
「雲かい? さア、煙だから軽いンだろう……」
 啓吉は学校へ行って先生に訊くに限ると思った。陽が当っていい天気のせいか、啓吉は革の匂いのするランドセルが懐しくなった。
「僕、やっぱりねえ、渋谷の叔母さんとこへ帰ろう……」
「渋谷? よし来た。どこだって送ってってやるよ。どうせ昼間は遊びだもの……」
 隆山は袂の底を小銭でちゃらちゃら音させながら、啓吉を連れて表通りへ出た。啓吉は、濡れた靴が気持ち悪かったが、四囲が爽かなので、じき忘れて歩いた。二人は電車通りにある一膳めし屋に這入った。まず壁に――朝飯定食八銭――と出ているのが啓吉に読めた。
「定食二人前くンなッ」
 隆山が意勢よく呶鳴った。
 その定食という奴が若布《わかめ》の味噌汁にうずら豆に新香と飯で、隆山は啓吉の飯を少しへずると、まるで馬のように音をたてて食べた。
「小僧! 美味《びみ》か?」
「…………」
 啓吉は只目で合点《うなず》いた。合点きながら、返事をしいられる事が何となく厭だった。だが飯も味噌汁も啓吉には美味《うま》い。うずら豆の甘いのは、長い間甘いものを口にしない啓吉にとって、天国へ登るような美味さであった。
 飯屋を出て、すぐ市電へ乗った。隆山は心のうちで尺八でも吹いているのか、こつりこつり首で拍手を取っている。
 窓外を見ている啓吉の目の中に段々記憶のある町が走って来る。――渋谷の終点で降りると、隆山は陽向《ひなた》に目をしょぼしょぼさせて、
「じゃ、さよならするぜ。覚えてるかい? 覚えてたら、又遊びにおいでよ……」
 といった。啓吉は吃驚したような顔をして隆山を見上げた。「遊びにお出でよ」と親切なことをいってくれたのは、大人でこの男が始めてであったから――。
「ああ」
 啓吉は有難うをいいたかったのだが、何となくそれがいえないで走り出した。
 花屋がある。コロッケ屋がある。啓吉はその路地へ片足でぴょんぴょん溝板を踏んで這入って行った。突き当りの二階の手摺《てすり》には、伸一郎を抱いて背を向けた勘三が、つくねんとしている。
「只今」
 と格子を開けると呆れたような寛子が、
「まア、厭な子だねえ、人にさんざ心配させて……貴方! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
 と、ほっとした容子で二階へ呶鳴った。

       十一

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田の麦は足穂《たりほ》うなだれ
茨《いばら》には紅き果熟し
小河には木の葉みちたり
いかにおもうわかきおみなよ
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「ああいかにおもう、野崎澄子よ、か……」
 勘三は、拾ったハンドバッグの中から、匂いのいいコンパクトを出して、鼻にあてながら
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