勘三は寛子から手紙を受取ると、そそくさと二階へ上り、すぐに支度をして降りて来た。
「また、昨夜みたいに、へべれけになって帰っちゃ困りますよ。いい? 家賃だって今月は少しかためて払わないじゃ、追っ払われそうだし、判りましたか?」
「あああだ、君の顔をみると、家賃の請求書に見えて仕方がないよ。ま、兎に角、俺の留守には、支那|蕎麦《そば》の十杯も食べて呑気に待っていなさい。ええ?」
勘三が元気よく、往来へ出て行くと、寛子は落ちつきのない容子で、鏡台の前に坐った。化粧水も髪油もとうの昔に空っぽだ。ああ早く三百円にお目にかかってあれもこれも……ねえ伸ちゃんといいたい気持ちで、寛子が振り返ると、啓吉も伸一郎も、裏の貧弱な椹《さわら》の垣根の下で、盛んに泥をこねかえしている。
「伸ちゃん! あんまり、ばばっちいことしちゃ駄目よッ」
玄関を開け拡げておくと、小さい鏡の中へまで、路地の上の空が写って見える。――啓吉が女の子だったら、女中がわりにでも置いてやるのだけれど、……何にしても三百円は大金だ。寛子は油気のないばさばさした髪に櫛をとおしながら、昨夜持って帰った、女持ちの青いハンドバッグが気にかかって仕方がなかった。
「一寸《ちょっと》見せてよ」
と言ったら、周章《あわ》ててしまいこんでしまったけれど……寛子は思い出したように急に立ちあがると、泥いじりしている啓吉へ、
「啓ちゃん、一寸お出で、一寸でいいの……」
と、裏口から啓吉を呼びたてた。
十三
星の奇麗な晩で、頭の芯が痛くなる程、啓吉は二階からあおむいて空を眺めた。
階下では、ハイキングに行った中の叔母の菅子が、野菊や赤い実のついた木の枝を土産《みやげ》にして、寛子と話しこんでいる。
「電気つけて……」
伸一郎が、つまらなくなったのか、手摺《てすり》から離れると、啓吉に電気をつけてとせがんだ。机は茶餉台がわりに階下へ降りているので、踏台になるものが何もない。
「うん、電気よか、星の方がピカピカしているよ、伸ちゃん、僕がアメリカを見せてやるからお出でよ……」
「アメリカ」
「ああとてもよく見えるよ、明るくて国旗がいっぱい出ててさ……」
啓吉が、伸一郎の腋の方へ手をまわしてかかえ上げると、伸一郎の胸の動悸がことこと激しく鳴っている。
「怖いかい」
「うん」
「怖かないよ……」
かかえ上げると、伸一郎が手摺に足をふんばったので、大きな音をたててどすんと、二人とも尻餅をついた。
「何、おいたしてるのッ! どすんどすん暴れて、埃がおちて来るじゃないのウ」
啓吉は首を縮めた。伸一郎はわざと、足を畳に投げつけた。啓吉は吃驚して、伸一郎の上へ馬乗りになったが、暗い闇のなかで、伸一郎の顔の上へ、自分の顔を持って行くと、乳くさい息が、微風のように啓吉の咽喉へ吹いて来た。啓吉は遠いものを探しあてたように、伸一郎の唇の上へ、自分の額を押しつけた。
「ぐりぐり坊主、ぐりぐり坊主……」
と、小さい声でささやきながら、啓吉は、伸一郎の腋の下を擽《くす》ぐった。擽ぐりながら、二人はころころ転げまわった。啓吉は冷たい畳の上を伸一郎と転がりながら、あくびまじりに涙が溢れた。
「おい! おいた[#「おいた」に傍点]してると、きかないよッ」
二階の梯子段の上から、寛子の顔が生首のように覗いた。階下では、菅子の優しい声で、
「子供だもの放っときなさいよ」
と、姉をたしなめている、ぽつんとした声がきこえる。
「真暗だね? 眠いンなら、二人とも降りていらっしゃい。その辺をばらばらにしていると叔父さんに叱られるよ」
啓吉はまた首を縮めた。
階下では、菅子が、牡丹色《ぼたんいろ》のジャケツに黒のジャアジイのスカートをはいて、横坐りになったままで、
「そりゃ勿論、姉さんがだらしがないのさ、だけど、女ってものは三十になったって、あンたのいうような、そンな分別なンてつかないと思うわ。しかも、五年も一人でいたンですもの、子供なンかかまって[#「かまって」に傍点]られないと思うの……」
「母性愛なンてものはなくなるかしら?」
「母性愛? 冗談じゃないわ、そンなことはあンたみたいに御亭主のある人のいうことさ、――あンなにまだ若づくりで、むちむちしてンですもの、苦労してる気持ち判るわよ……」
「おやおや一人者の癖して、よく三十女の気持ちがお判りになりますねえ?」
「判るも判らないも、本当の事よ。蓮ちゃんだって、そうだわ。たった十七だけど、あんなになって、子供の癖にいっぱしの女房気取りで、……一番、あンたを莫迦にしている位よ」
「へえ、私を莫迦に? 何時逢ったの?」
「ううん、一寸尋ねて来たンだけど……まるきり変ってしまってねえ、苦労はしてるらしいけど、一人者のあたしの方が、よっぽど羨ましかったわよ」
前へ
次へ
全19ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング