十四

 九時が打った。
 勘三はまだ帰らなかった。誂《あつ》らえた支那蕎麦が本当に十杯ばかりも並んだ。
「こんなに御馳走になって済まないわ」
「何いってンのよ、さア、伸公も啓ちゃんもたンとお上りよ」
 啓吉は茶碗をかかえ上げて、湯気で頬を濡らしながら、青いハンドバッグの事を知らないで押し通した事に気がひけながら、蕎麦を食べた。小さい電気の下に、四ツの大きな影が部屋いっぱいに重なりあって、いっとき静かに蕎麦の音をさせていたが、寛子が思い出したように、
「あンたも、蓮ちゃんを羨ましがらないで、早く結婚したらいいじゃないの?」
「うふッ……何を思い出してンの、さ、私は私よ。いまにもっともよき人を選んでね」
「薹《とう》がたってはお終いだから……」
「まア、有難う! 三人のいい見本がありますから、せいぜい利巧に立ちまわるわ……」
「莫迦! ところで考えてるンだけど、四人のうちで私が一番貧乏性かも知れないわね。――酒呑みで、呑気そうで浮気者の亭主をかかえてさ、おまけに、呆んやりした子供をぶらさげてて、一生に一度、あンたみたいに、安香水でもいいからふりかけて見たいよ本当に……」
「皮肉ねえ……」
「ん、そ、そうじゃないさ、つくづく亭主ってもの持ってみて、女ってものの利巧さかげんがよく判ったのよ」
「だって、義兄さんは、あれで芯はしっかりしているわ、啓坊のお父さんみたいだと困るじゃないの? あれもいけない、これもいけないっていうから、義兄さんが亡くなっちゃうと、姉さんはいっぺんに若返って、娘のやりなおしみたい甘くなっちまってさ……」
「結局、早稲《わせ》も晩稲《おくて》も駄目で、あンたみたいなのがいいってことでしょ」
「あら、厭だア、冗談でしょ。私だって情熱があれば、蓮ちゃんの轍《てつ》を踏む位何でもないけれど……職業なンか持ってると、そうそう男のひと一と目見て、一途《いちず》にやれないからなの、――でもそろそろ本当は困ってンのよ。二十四にもなって、別に処女を大事にしてるってのじゃないけど、いまさらその辺へ一寸安々捨てられもしないし……」
「もてあましている?」
「全く、本当にそうなのホホ……」
「厭なお菅ちゃんだ……。ところで、父さん、どうしたんだろう? 遅いわねえ」
 伸一郎は、早、寛子の膝を枕に眠りこけている。隣家では時計が十時を打った。
「昨日も電話があ
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