ゃん、昨夜、おれの寝床へはいりこんで来たよ。寝ぞう悪いンだなあ……」と笑った。四ツになる光吉も片言で、「おじいちゃん、怖《こわ》い夢《ゆめ》みたのかい?」と聞いている。千穂子は子供の前に赧《あか》くなった。与平はぷつっとして子供からそっぽを向いた。――与平も苦しまないはずはないのだ。毎晩、どんな工面《くめん》をしても酒を飲むようになっていた。だけど、酒を飲むと人が変ったように与平は感傷的になり、だらしなくなっていた。酒に酔《よ》って帰った与平に対して、千穂子が怒《おこ》ってぷりぷりしていると、頻《しき》りに頭をこすりつけてあやまるのだ。深酒をした夜など与平の気持ちは乱れて、かっと眼を開いているまつの前でも与平は千穂子に泣くようにしてあやまるのである。与平にとっては、嫁《よめ》の千穂子が不憫で可愛《かわい》くて仕方がないのであった。隆吉に別れている淋《さび》しさが、千穂子との間にだけは、自分の淋しさと同じように通じあった。千穂子も淋しくて仕方がないのだと、まるで、自分の娘《むすめ》を可愛がるようなしぐさで、千穂子の背中をさすり、子守唄《こもりうた》を歌って慰《なぐさ》めてやりたくなるのである。その可愛さがだんだん太々《ふとぶと》しくなり、しまいには食い殺してしまいたい気持ちになるのも酒の沙汰《さた》だけとは云えないのだ……。器量のいい女ではなかったけれども、餅《もち》のようにしんなりした肌をしていた。よく光る眼をしていた。眉《まゆ》は薄く、顔つきもまんまるだったが、茶色の眼だけは美しかった。髪《かみ》も赤っ毛で縮れていた。K町の実科女学校に行っている頃《ころ》、与平は千穂子にたびたび道で出逢《であ》った。ちっとも目立たない娘であった。そうした無関心でいた娘が、隆吉の嫁になって来てから、今日に到《いた》るまでの事を考えると、与平は偶然な運命と云うものを妙なものだと思った。深酒に酔って、しばらくごうごうといびきをたてて眠ると、夜中になって、与平は本能的に何かを求めた。暗がりの中で、まつが眼を覚ましていようといまいと、与平はかまっていられないのだ。考える事と、行動力は別々であった。皮膚《ひふ》を一皮むいてしまいたいような熱っぽい感じなのである。一日一日罪を贖《あがな》ってゆく感じだった。夜になると、千穂子へ対する哀れさ不憫さの愛が頂点に達してゆくのだった。昼間、決断力が強くなっている日ほど、夜になると、不逞《ふてい》きわまる与平の想像がせきを切って流れて行った。相手が動物になってしまうと、もう、与平にとって、哀れでも不憫でもなくなる。意識はひどくさえざえとして来て、自分で自分がしまいには不愉快《ふゆかい》になって来るのだ。自分の寝床へ戻って来ると、息子《むすこ》へ対してしみじみと自責の念が湧《わ》き、千穂子と云う女が厭《いや》になって来るのであった。千穂子に限らず、あらゆる人間が厭になって来るのであった。その厭だと思う気持ちが、前よりもいっそう人づきあいの悪い老人になり、千穂子が荒川区のある産院に子供を産みに行ってからは、与平は釣《つ》りばかりして暮していた。釣りをしている時だけが愉《たの》しみであった。与平だけでは二人の子供のめんどうは見られないので、千穂子は与平に頼《たの》んで、葛飾《かつしか》にある、自分の実家の方に二人の子供をあずけた。母と姉とが、このごろ野菜の闇屋《やみや》になって暮していた。姉の富佐子《ふさこ》は、結婚《けっこん》していたけれど、良人が日華《にっか》事変の当時|出征《しゅっせい》して戦死してからと云うもの、勝気で男まさりなところから、子供のないままに、野菜荷をかついで東京の町々へ売りに行って、いまでは小金も少しは貯《た》め込《こ》んでいた。野菜がない時は、静岡《しずおか》まで蜜柑《みかん》を買いに行ったり、信州までリンゴを買いに行ったりした。終戦になってからも、ずっと商売はつづけていた。男の運び屋のように、たくさんの荷を背負っては来なかったが、リンゴも三度に一度は取りあげられると、浮《うか》ぶ瀬《せ》がないので、味噌《みそ》とか、ゴマのようなものを混ぜて買って来ては、結構|利潤《りじゅん》がのぼっていた。
 富佐子は久しく、千穂子に逢う事がないので階川の家の様子も判《わか》らなかったけれども、母親の梅《うめ》は、様子の変って来ている千穂子と与平の関係をそれとなく感じている様子だった。与平が怒りっぽい男なので、ただ、そんな話にふれる事をさけているきりであったが、心のうちでは、梅は娘の身の上をひどく案じていた。


 千穂子は女の子を産んだ。
 肉親の誰一人にも診《み》ててもらうでもなく、辛い難産であった。太郎や光吉の時も、このような苦しみようはしなかったと思うほどな辛さであった。――階川の家には、隆吉と与平の自転車が二台あったのを、与平は自分のを売って金に替《か》えて、千穂子に持たせた。土地もない小百姓だったので、現金も案外持ってはいなかったし、与平にとっては、自分の貯《たくわ》えの中から、お産の金を出すと云う事は、隆吉に顔むけならない気持ちで、自分の自転車は盗《ぬす》まれた事にすればよいと思っていたのだ。
 女の子供が生れたと聞いても、与平は別にうれしくもなかった。隆吉の下に霜江《しもえ》と云う娘があったけれど、十一の時に肺炎《はいえん》で死なせてしまった。いま生きていれば、二十三の娘ざかりである。
 与平は仄々《ほのぼの》といい気持ちに酔って来た。やがて隆吉が戻って来るという事が少しも不安でなくなり、慰めでさえあるような気がした。早く逢いたいと思った。ラジオで聞く、リバテイ型という船に乗っている、兵隊姿の隆吉のおもかげが浮んで来た。千穂子との、狂った生活も、いまではすっかり落ちつくところへ落ちついている……。だが、何事もひしかくしにして済まされるものではあるまいと思っていた。そう思って来ると、与平はずしんと水底に落ちこむような孤独《こどく》な気持ちになって来た。酒のせいか、さっきほど、思いつめた気持ちにはなれなかったが、もう少し、呼んでくれる千穂子の声がしなかったら、あの風の中に、河へはいったまま与平はそのまま網と共に、自分も流される気でいたのだ。
 水の中へ少しずつはいってゆくと、寒さもかえって判らなかったし、水の上は菱波立っていながら、水の底は森々とゆるく流れてなまぬるかった。くいなのような鳥の声が、ぎゃあと遠くに聞えているのも耳についていた。与平は一歩ずつゆるく川底にはいってゆきながら、眼をすえて水の上を眺《なが》めていた。石油色のすさびた水の色が、黄昏のなかに少しずつ色を暗く染めていった。水しぶきが冷たかった。そのくせ、河明りの反射が、まるで秋のようにさえざえしていた。
「どの位、金をつけりゃいいのだえ?」
 与平が引っこんだ眼をぎょろりと光らせた。さて、いくらつけたらよいかと問われて、千穂子は、このごろの物価高の相場を吊《つ》りあわせる金銭の高が云えなかった。こうした不幸な子供の貰い手には、金が目当てで、筋のよい子なら、一万円もつけるのもあるだろうけれど、普通《ふつう》に云っても、千円や、二千円はつけなければならないのだ。
「新聞に出してもらったか?」
「ええ、一度出してもらったンですけど、てんからないンですよ。虫眼鏡《むしめがね》でみるような広告が、新しい新聞で八拾円なンですものね」
 千穂子は心のうちで、もう一度、伊藤さんに頼んでみようと思った。心は焦りながら、そのくせ、一日しのぎで、千穂子は上の男の子達よりも不憫がまして来ているのである。貰われてゆけばすぐ死にそうな気がした。自分の勝手さだけで、子供をなくしたくない執着《しゅうちゃく》が強くなり、今朝、産院を出て来たばかりだのに、さっきから、赤ん坊の事が気にかかって仕方がないのだ。千穂子のもう一つの考えの中では、姉に打ちあけて、姉の子供にしてもらいたかった。
「いいンだよ。私が勝手に何とか片をつけるもン、おじいちゃんは心配せんでもいいのよ……」
 与平はコップを持っていた手を中途《ちゅうと》でとめて、じっと宙を見ていた。大きい耳がたれさがって老いを示していたが、まだ、狭い額には若々しい艶《つや》があった。白毛まじりの太い眉の下に、小さい引っこんだ眼が赤くただれていた。
「何とかなるで……金の工面をした方がよかろう?」
「うん、だけど、これ、私の考えだけどねえ、私、姉《ねえ》さんに話してみようかと思うンだけど、どうでしょう……。そして、隆吉さんが戻って来る前に、私、女中でも何でもして働きに出ようと思ってるンだけど……」
「ふン、太郎と光吉はどうするンだえ?」
 太郎と光吉の事を云われると、千穂子はどうにも返事が出来ないのだ。新しい嫁を貰ってもらうわけにはゆかないものだろうかと、千穂子は心の底で思うのだった。血腥《ちなまぐさ》いことにならなければよいがと云う気持ちと一緒に、隆吉が思いきりよく、新しい嫁を選んでくれればいいと云った様々な思いが、千穂子の頭の中を焙《あぶ》るように弾《は》ぜているのだ。
 隆吉からは同情的な施《ほどこ》しを受けてはならないと思った。殴《なぐ》るか、蹴《け》るか、どんなにひどい仕打ちをされてもかまわないと思うのである。自分と云う性根のない女を、思いきり虐《さい》なんでもらわなければならないような気がした。そのくせ、千穂子は与平を憎悪《ぞうお》する気持ちにはなれなかった。俎板《まないた》の上で首を切られても、胴体《どうたい》だけはぴくぴく動いている河沙魚《かわはぜ》のような、明瞭《はっき》りとした、動物的な感覚だけが、千穂子の脊筋《せすじ》をみみずのように動いているのだ。
 風が弱まり、トタン屋根を打つ雨の音がした。なまあたたかい晩春の夜風が、どこからともなく吹き込む。麦ばかりのような黒い飯をよそって、千穂子は濁酒を飲んでいる与平のそばで、ぼそぼそと食べはじめた。
 風のむきで河の音がきこえる。与平は、空《から》になったコップを膳の上に置いて、ぽつねんと、丼をなめている猫を見ていた。
「おじいちゃん、私、ご飯を食べたからかえりますよ」
「うん……」
「変な気をおこさないで下《くだ》さいよ。おじいちゃんがそんな気を起すと、私だって、じっとしてはいられないもの……」
 与平は眼をしょぼしょぼさせていた。薄暗い電気の光りをねらって、かげろうのような長い脚《あし》の虫が飛びまわっている。――与平が五十七、千穂子が三十三であったが、お互《たが》いは、まるで、無心な子供に近い運命しか感じてはいないのだろう……。二人とも、ただ、隆吉だけを恐ろしいと思うだけである。そのくせ、隆吉に対する二人の愛情は信仰《しんこう》に近いほど清らかなものであった。
 まつが、起きたような気配《けはい》だったので、千穂子は箸《はし》を置いて奥の間へ行った。暗い電気の下で、ぶるぶる震《ふる》える手つきで、飯をぽろぽろこぼしながらまつは食事をしていた。
「おかあさん、起きたの知らなかったンだよ」
 甲斐甲斐《かいがい》しく膳を引きよせて、千穂子は姑の口へ子供へするように飯を食べさせてやった。――隆吉は、千穂子より一つ下で世間で云う姉|女房《にょうぼう》であったが、千穂子は小柄なせいか、年よりは若く見えた。実科女学校を出ると、京成《けいせい》電車の柴又《しばまた》の駅で二年ばかり切符《きっぷ》売りをしたりした事もある。隆吉にかたづく二十五の年まで浮いた事もなく、年をとっても、てんから子供のようななりふり[#「なりふり」に傍点]でいた。
 隆吉との夫婦仲《ふうふなか》は良かった。隆吉は京成電車の車掌《しゃしょう》をしていたが、それも二三年位のもので、あとはずっと、与平に手伝って、百姓をしたり、土地売買のブロオカアのような事をして暮していた。中学を中途でやめた、気性の荒い男だったが、さっぱりした人好きのされる性質で、千穂子よりは二つ三つ老《ふ》けて見えた。背の高い、ひょろひょろしているところが、弱そうに見えたけれど、芯《しん》は丈夫《じょうぶ》で、
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング