歩兵にはもって来いだと云う人もあった。


 千穂子は、その夜|泊《とま》った。
 翌《ある》る日、千穂子が眼をさますと、もう与平は起きていた。うらうらとした上天気で、棚引くような霞《かすみ》がかかり、堤の青草は昨夜の雨で眼に沁《し》みるばかり鮮《あざや》かであった。よしきりが鳴いていた。炉端の雨戸も開け放されて気持ちのいいそよ風が吹き流れていた。
 与平は炉端に安坐を組んで銭勘定《ぜにかんじょう》をしていた。いままで、かつて、そうしたところを見たこともなかっただけに、千穂子は吃驚して、黙《だま》って台所へ降りて行った。
「おい……」
 与平が呼んだ。千穂子が振り返ると、与平はむっつりしたまま札《さつ》を数えながら、
「今日、これだけ持って行って、よく、頼んでみな……」
 藷《いも》を売ったり、玉子の仲買いをしたり、川魚を売ったりして、少しずつ新円を貯めていたのであろう、子供が幼稚園《ようちえん》にさげてゆく弁当入れのバスケットに、まだ五六百円の新円がはいっていた。
「千円で何とかならねえか、産婆さんに聞いてみな……貧乏《びんぼう》なンだから、これより出せねって云えば、どうにかしてくれねえものでもねえぞ……」
「ええ、これから行って、よく相談します」
 千穂子は髪ふりみだしたまま、泣きそうな顔をして、モンペの紐《ひも》で鼻水を拭《ふ》いた。涙が出て仕方がなかった。中国にいる隆吉のかえりも、もう間近であろうと云う風評である。千穂子は、産院へ戻る前に、姉の富佐子に打明けて相談をしてみたかった。どうせ、あんな赤ん坊に貰い手はないとあきらめるより仕方がないのだ……。犬猫を貰ってもらうように簡単な訳にはゆかない。器量のいい赤ん坊でなかった事が不幸ではあったけれど、千穂子自身は、生れた赤ん坊に、一ヶ月近くもなじんで来ると、器量なぞのよしあしなぞ親の慾目《よくめ》で考える事も出来なかった。ただ、不憫がますばかりだったし、与平に一眼だけ見せたくてたまらなかった。どこかへ貰われてゆく前に、一眼だけ、与平に見せて抱《だ》いてもらいたかったのだ。
 千穂子は台所へ降りて、竈《かまど》に火をつけて、すいとんをつくった。裏口へ出ると、米をまいたように、こでまりの花が散り、つつじの赤い花がむらがって開いていた。霞立ったような河の水が、あさぎ色にあたたかく明るんで、堤防の下を行く子供達の賑《にぎ》やかな声がした。千穂子は、太郎たちの事を思い、切なかった。家を飛び出す事も出来なければ、死ぬのも出来ないのも、みんな子供達のためだと思うと、千穂子はどうしようもないのである。頭が混乱してくると、千穂子は、軽い脳貧血のようなめまいを感じた。
 食糧《しょくりょう》を風呂敷包《ふろしきづつ》みにして、千円の金を持って千穂子は産院に戻って来たが、赤ん坊はひどい下痢《げり》をしていた。産婆の話によると伊藤さんは他から、器量のいい二つになる赤ん坊を貰ったと云う事であった。千穂子はがっかりしてしまった。産院に千円の金をあずけて、三日目にまた与平のところへ相談に戻って来たが、与平はひどく機嫌《きげん》をそこねて、いっとき口も利《き》かなかった。
「これは運だから仕様がないけど、当分、貰い手がつくまで、あずかってもらっておこうと思うンだけど、一度、おじいちゃんにも聞いてみようと思って……私だって、ただ、ぶらぶらしてるンじゃないンですよ。困っちゃったンだもン」
「昨夜、富佐子が来て、太郎たち引取ってもらいてえと云って来たよ」
「あら、そうですか……もう二ヶ月以上にもなりますからねえ……男の子は手がかかるしねえ」
 与平は筍《たけのこ》を仕入れて来たと云って、これから野菜と一緒にリヤカアで、東京の闇市《やみいち》へ売りに行くのだと支度《したく》をしていた。
「おい、隆吉が戻って来たぞ……」
 ぽつんと与平が云った。
 千穂子ははっとして眼をみはった。
「手紙が来たの?」
「うん、佐世保から電報が来た」
 与平はもう一日しのぎな生活だったのだ。千穂子は気が抜《ぬ》けたような恰好で、縁側《えんがわ》に腰をかけた。表口へ出る往来|添《ぞ》いの広場に、石材が山のように積んである。千葉県北葛飾郡八木郷村村有石材置場と云う大きい新しい木札《きふだ》が立てられた。千穂子は腰かけたなり、その木札の文字を何度も読みかえしていた。その墨《すみ》の文字が、虫のように大きくなったり縮んだりして来る。長閑《のどか》によしきりが鳴いている。
「おじいちゃん。隆さん、いつ戻るの?」
「明日あたり着くンだろう……」
 色の黒い商人風な男が、玉子はないかと聞きに来た。与平は顔なじみと見えて、部屋から玉子の籠《かご》を出して来ると、玉子を陽《ひ》に透かしては三十|箇《こ》ばかり相手の籠に入れてやった。男は釣銭はいらないと云って、百円札を置いて行った。その男の後姿を見て、千穂子は何と云う事もなくぞっとするようなものを感じた。死神とはあんなものではないかと思えた。片耳が花の芯のように小さく縮まってしまって、耳たぶがなかったのだ。
「ああ、気持ちの悪い男だね……」
 千穂子は立って行って、しばらく男の後姿を眺めていた。与平はやがて支度が出来たのか、隆吉の自転車にリヤカアをくくりつけて、「夜にゃア戻って来る」と云って出掛《でか》けて行った。
 千穂子は与平が出て行くと、裏口へまわって、奥の間へ上った。まつは、不恰好な姿で、這うようにしておまるをかたづけていた。
「おしっこですか?」
 もう用を足したと見えて、まつはものうそうに首を振っている。痩せて骨と皮になっていたけれど、まだまだ生命力のあると云った芯の強そうな様子があった。
「おばあちゃん、隆吉さんが戻って来ますよッ」
 千穂子がまつの耳もとでささやくと、表情の動かないまつは、じいっと千穂子の眼をみつめていた。千穂子はみつめられて厭な気持ちだった。隆吉が戻って来れば、もう、いっぺんにこの静かな河添いの生活から切り離《はな》されてしまうのだと淋しかった。千穂子はたまらなくなって裏口へ出て行った。半晴半曇の柔《やわらか》い晩春の昼の陽が河の上に光りを反射させている。水ぎわに降りて行った。もう、追いつめられてしまって、どうにもならない気持ちだった。「死ぬッ」千穂子は独りごとを云った。死ねもしないくせに、こころがそんな事を云うのだ。肉体は死なないと云う自信がありながら、弱まった心だけは、駄々をこねているみたいに、「死ぬッ」と叫《さけ》んでいる。
 四囲《あたり》は仄々と明るくて、どこの畑の麦も青々とのびていた。
 苔《こけ》でぬるぬるした板橋の上に立って、千穂子は流れてゆく水の上を見つめた。藁屑《わらくず》が流れてゆく。いつ見ても水の上は飽《あ》きなかった。この江戸《えど》川の流れはどこからこんなに水をたたえて漫々《まんまん》と流れているのだろうと思うのだ。――薄青い色の水が、こまかな小波《さざなみ》をたてて、ちゃぷちゃぷと岸の泥《どろ》をひたしている。広い水の上に、尾《お》の青い鳥が流れを叩くようにすれすれに飛び交っていた。後の堤の上を、自転車が一台走って行った。千穂子はさっきの、耳のない男の後姿をふっと思い出している。
 どうしても、死ぬ気にはなれないのが苦しかった。本当に死にたくはないのだ。死にたくないと思うとまた悲しくなって来て、千穂子はモンペの紐でじいっと眼をおさえた。全速力で何とかしてこの苦しみから抜けて行きたいのだ……。明日は隆吉が戻って来る。嬉《うれ》しくないはずはない。久しぶりに白い前歯の突き出た隆吉の顔が見られるのだ。いまになってみれば与平との仲が、どうしてこんな事になってしまったのか分《わか》らない……。自然にこんな風にもつれてしまって、不憫な赤ん坊が出来てしまったのだ。――長い事、橋の上に蹲踞《しゃが》んでいたせいか、ふくらっぱぎがしびれて来た。千穂子は泥の岸へぴょいと飛び降りると、草むらにはいりこんで誰かにおじぎをしているような恰好で小用を足した。いい気持ちであった。
[#地から1字上げ](昭和二十二年一月)



底本:「ちくま日本文学全集 林芙美子」筑摩書房
   1992(平成4)年12月18日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学大系 69 林芙美子・宇野千代・幸田文集」筑摩書房
   1969(昭和44)年
初出:「人間」
   1947(昭和22)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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