いていた茜色の光りは沈《しず》み、与平の顔がただ、黒い獣《けもの》のように見える。なまぐさい藻《も》の匂《にお》いがする。近間で水鳥が鳴いている。与平が水のなかに這入《はい》りこんでいたのが、千穂子には何となく不安な気持ちだった。
「風邪《かぜ》をひくだアよ。おじいちゃん。無茶なことしないでね……」
「網《あみ》を逃《に》がしてしまったで、探しとったのさ」
「ふン、でも、まだ寒いのに、無理するでないよ……」
「うん、――まつは起きてるのかえ?」
「起きてなさる」
「ふうん……えらい風だぞ、夜は風になるな」
 ずぶ濡れになったまま、与平はがっしりした躯《からだ》つきで千穂子の前を歩いて行く。腿《もも》のあたりに、濡れたずぼんがからみついていた。裏口の生垣《いけがき》に咲《さ》いているこでまりの白い花の泡《あわ》が、洗濯物《せんたくもの》のように、風に吹かれていた。千穂子は走って、台所へ行き、釜の下をのぞいた。火が燃えきっていた。あわてて松葉《まつば》と薪《まき》をくべると、ひどい煙《けむり》の中から炎《ほのお》がまいたって、土間の自転車の金具が炎で赤く光った。
 千穂子は納戸《なんど》か
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