自転車が二台あったのを、与平は自分のを売って金に替《か》えて、千穂子に持たせた。土地もない小百姓だったので、現金も案外持ってはいなかったし、与平にとっては、自分の貯《たくわ》えの中から、お産の金を出すと云う事は、隆吉に顔むけならない気持ちで、自分の自転車は盗《ぬす》まれた事にすればよいと思っていたのだ。
女の子供が生れたと聞いても、与平は別にうれしくもなかった。隆吉の下に霜江《しもえ》と云う娘があったけれど、十一の時に肺炎《はいえん》で死なせてしまった。いま生きていれば、二十三の娘ざかりである。
与平は仄々《ほのぼの》といい気持ちに酔って来た。やがて隆吉が戻って来るという事が少しも不安でなくなり、慰めでさえあるような気がした。早く逢いたいと思った。ラジオで聞く、リバテイ型という船に乗っている、兵隊姿の隆吉のおもかげが浮んで来た。千穂子との、狂った生活も、いまではすっかり落ちつくところへ落ちついている……。だが、何事もひしかくしにして済まされるものではあるまいと思っていた。そう思って来ると、与平はずしんと水底に落ちこむような孤独《こどく》な気持ちになって来た。酒のせいか、さっきほど、
前へ
次へ
全28ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング