なっている日ほど、夜になると、不逞《ふてい》きわまる与平の想像がせきを切って流れて行った。相手が動物になってしまうと、もう、与平にとって、哀れでも不憫でもなくなる。意識はひどくさえざえとして来て、自分で自分がしまいには不愉快《ふゆかい》になって来るのだ。自分の寝床へ戻って来ると、息子《むすこ》へ対してしみじみと自責の念が湧《わ》き、千穂子と云う女が厭《いや》になって来るのであった。千穂子に限らず、あらゆる人間が厭になって来るのであった。その厭だと思う気持ちが、前よりもいっそう人づきあいの悪い老人になり、千穂子が荒川区のある産院に子供を産みに行ってからは、与平は釣《つ》りばかりして暮していた。釣りをしている時だけが愉《たの》しみであった。与平だけでは二人の子供のめんどうは見られないので、千穂子は与平に頼《たの》んで、葛飾《かつしか》にある、自分の実家の方に二人の子供をあずけた。母と姉とが、このごろ野菜の闇屋《やみや》になって暮していた。姉の富佐子《ふさこ》は、結婚《けっこん》していたけれど、良人が日華《にっか》事変の当時|出征《しゅっせい》して戦死してからと云うもの、勝気で男まさりなところから、子供のないままに、野菜荷をかついで東京の町々へ売りに行って、いまでは小金も少しは貯《た》め込《こ》んでいた。野菜がない時は、静岡《しずおか》まで蜜柑《みかん》を買いに行ったり、信州までリンゴを買いに行ったりした。終戦になってからも、ずっと商売はつづけていた。男の運び屋のように、たくさんの荷を背負っては来なかったが、リンゴも三度に一度は取りあげられると、浮《うか》ぶ瀬《せ》がないので、味噌《みそ》とか、ゴマのようなものを混ぜて買って来ては、結構|利潤《りじゅん》がのぼっていた。
 富佐子は久しく、千穂子に逢う事がないので階川の家の様子も判《わか》らなかったけれども、母親の梅《うめ》は、様子の変って来ている千穂子と与平の関係をそれとなく感じている様子だった。与平が怒りっぽい男なので、ただ、そんな話にふれる事をさけているきりであったが、心のうちでは、梅は娘の身の上をひどく案じていた。


 千穂子は女の子を産んだ。
 肉親の誰一人にも診《み》ててもらうでもなく、辛い難産であった。太郎や光吉の時も、このような苦しみようはしなかったと思うほどな辛さであった。――階川の家には、隆吉と与平の自転車が二台あったのを、与平は自分のを売って金に替《か》えて、千穂子に持たせた。土地もない小百姓だったので、現金も案外持ってはいなかったし、与平にとっては、自分の貯《たくわ》えの中から、お産の金を出すと云う事は、隆吉に顔むけならない気持ちで、自分の自転車は盗《ぬす》まれた事にすればよいと思っていたのだ。
 女の子供が生れたと聞いても、与平は別にうれしくもなかった。隆吉の下に霜江《しもえ》と云う娘があったけれど、十一の時に肺炎《はいえん》で死なせてしまった。いま生きていれば、二十三の娘ざかりである。
 与平は仄々《ほのぼの》といい気持ちに酔って来た。やがて隆吉が戻って来るという事が少しも不安でなくなり、慰めでさえあるような気がした。早く逢いたいと思った。ラジオで聞く、リバテイ型という船に乗っている、兵隊姿の隆吉のおもかげが浮んで来た。千穂子との、狂った生活も、いまではすっかり落ちつくところへ落ちついている……。だが、何事もひしかくしにして済まされるものではあるまいと思っていた。そう思って来ると、与平はずしんと水底に落ちこむような孤独《こどく》な気持ちになって来た。酒のせいか、さっきほど、思いつめた気持ちにはなれなかったが、もう少し、呼んでくれる千穂子の声がしなかったら、あの風の中に、河へはいったまま与平はそのまま網と共に、自分も流される気でいたのだ。
 水の中へ少しずつはいってゆくと、寒さもかえって判らなかったし、水の上は菱波立っていながら、水の底は森々とゆるく流れてなまぬるかった。くいなのような鳥の声が、ぎゃあと遠くに聞えているのも耳についていた。与平は一歩ずつゆるく川底にはいってゆきながら、眼をすえて水の上を眺《なが》めていた。石油色のすさびた水の色が、黄昏のなかに少しずつ色を暗く染めていった。水しぶきが冷たかった。そのくせ、河明りの反射が、まるで秋のようにさえざえしていた。
「どの位、金をつけりゃいいのだえ?」
 与平が引っこんだ眼をぎょろりと光らせた。さて、いくらつけたらよいかと問われて、千穂子は、このごろの物価高の相場を吊《つ》りあわせる金銭の高が云えなかった。こうした不幸な子供の貰い手には、金が目当てで、筋のよい子なら、一万円もつけるのもあるだろうけれど、普通《ふつう》に云っても、千円や、二千円はつけなければならないのだ。
「新聞に出してもらったか?」

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