ええ、一度出してもらったンですけど、てんからないンですよ。虫眼鏡《むしめがね》でみるような広告が、新しい新聞で八拾円なンですものね」
 千穂子は心のうちで、もう一度、伊藤さんに頼んでみようと思った。心は焦りながら、そのくせ、一日しのぎで、千穂子は上の男の子達よりも不憫がまして来ているのである。貰われてゆけばすぐ死にそうな気がした。自分の勝手さだけで、子供をなくしたくない執着《しゅうちゃく》が強くなり、今朝、産院を出て来たばかりだのに、さっきから、赤ん坊の事が気にかかって仕方がないのだ。千穂子のもう一つの考えの中では、姉に打ちあけて、姉の子供にしてもらいたかった。
「いいンだよ。私が勝手に何とか片をつけるもン、おじいちゃんは心配せんでもいいのよ……」
 与平はコップを持っていた手を中途《ちゅうと》でとめて、じっと宙を見ていた。大きい耳がたれさがって老いを示していたが、まだ、狭い額には若々しい艶《つや》があった。白毛まじりの太い眉の下に、小さい引っこんだ眼が赤くただれていた。
「何とかなるで……金の工面をした方がよかろう?」
「うん、だけど、これ、私の考えだけどねえ、私、姉《ねえ》さんに話してみようかと思うンだけど、どうでしょう……。そして、隆吉さんが戻って来る前に、私、女中でも何でもして働きに出ようと思ってるンだけど……」
「ふン、太郎と光吉はどうするンだえ?」
 太郎と光吉の事を云われると、千穂子はどうにも返事が出来ないのだ。新しい嫁を貰ってもらうわけにはゆかないものだろうかと、千穂子は心の底で思うのだった。血腥《ちなまぐさ》いことにならなければよいがと云う気持ちと一緒に、隆吉が思いきりよく、新しい嫁を選んでくれればいいと云った様々な思いが、千穂子の頭の中を焙《あぶ》るように弾《は》ぜているのだ。
 隆吉からは同情的な施《ほどこ》しを受けてはならないと思った。殴《なぐ》るか、蹴《け》るか、どんなにひどい仕打ちをされてもかまわないと思うのである。自分と云う性根のない女を、思いきり虐《さい》なんでもらわなければならないような気がした。そのくせ、千穂子は与平を憎悪《ぞうお》する気持ちにはなれなかった。俎板《まないた》の上で首を切られても、胴体《どうたい》だけはぴくぴく動いている河沙魚《かわはぜ》のような、明瞭《はっき》りとした、動物的な感覚だけが、千穂子の脊筋《せすじ》をみみずのように動いているのだ。
 風が弱まり、トタン屋根を打つ雨の音がした。なまあたたかい晩春の夜風が、どこからともなく吹き込む。麦ばかりのような黒い飯をよそって、千穂子は濁酒を飲んでいる与平のそばで、ぼそぼそと食べはじめた。
 風のむきで河の音がきこえる。与平は、空《から》になったコップを膳の上に置いて、ぽつねんと、丼をなめている猫を見ていた。
「おじいちゃん、私、ご飯を食べたからかえりますよ」
「うん……」
「変な気をおこさないで下《くだ》さいよ。おじいちゃんがそんな気を起すと、私だって、じっとしてはいられないもの……」
 与平は眼をしょぼしょぼさせていた。薄暗い電気の光りをねらって、かげろうのような長い脚《あし》の虫が飛びまわっている。――与平が五十七、千穂子が三十三であったが、お互《たが》いは、まるで、無心な子供に近い運命しか感じてはいないのだろう……。二人とも、ただ、隆吉だけを恐ろしいと思うだけである。そのくせ、隆吉に対する二人の愛情は信仰《しんこう》に近いほど清らかなものであった。
 まつが、起きたような気配《けはい》だったので、千穂子は箸《はし》を置いて奥の間へ行った。暗い電気の下で、ぶるぶる震《ふる》える手つきで、飯をぽろぽろこぼしながらまつは食事をしていた。
「おかあさん、起きたの知らなかったンだよ」
 甲斐甲斐《かいがい》しく膳を引きよせて、千穂子は姑の口へ子供へするように飯を食べさせてやった。――隆吉は、千穂子より一つ下で世間で云う姉|女房《にょうぼう》であったが、千穂子は小柄なせいか、年よりは若く見えた。実科女学校を出ると、京成《けいせい》電車の柴又《しばまた》の駅で二年ばかり切符《きっぷ》売りをしたりした事もある。隆吉にかたづく二十五の年まで浮いた事もなく、年をとっても、てんから子供のようななりふり[#「なりふり」に傍点]でいた。
 隆吉との夫婦仲《ふうふなか》は良かった。隆吉は京成電車の車掌《しゃしょう》をしていたが、それも二三年位のもので、あとはずっと、与平に手伝って、百姓をしたり、土地売買のブロオカアのような事をして暮していた。中学を中途でやめた、気性の荒い男だったが、さっぱりした人好きのされる性質で、千穂子よりは二つ三つ老《ふ》けて見えた。背の高い、ひょろひょろしているところが、弱そうに見えたけれど、芯《しん》は丈夫《じょうぶ》で、
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング