と云って、百円札を置いて行った。その男の後姿を見て、千穂子は何と云う事もなくぞっとするようなものを感じた。死神とはあんなものではないかと思えた。片耳が花の芯のように小さく縮まってしまって、耳たぶがなかったのだ。
「ああ、気持ちの悪い男だね……」
 千穂子は立って行って、しばらく男の後姿を眺めていた。与平はやがて支度が出来たのか、隆吉の自転車にリヤカアをくくりつけて、「夜にゃア戻って来る」と云って出掛《でか》けて行った。
 千穂子は与平が出て行くと、裏口へまわって、奥の間へ上った。まつは、不恰好な姿で、這うようにしておまるをかたづけていた。
「おしっこですか?」
 もう用を足したと見えて、まつはものうそうに首を振っている。痩せて骨と皮になっていたけれど、まだまだ生命力のあると云った芯の強そうな様子があった。
「おばあちゃん、隆吉さんが戻って来ますよッ」
 千穂子がまつの耳もとでささやくと、表情の動かないまつは、じいっと千穂子の眼をみつめていた。千穂子はみつめられて厭な気持ちだった。隆吉が戻って来れば、もう、いっぺんにこの静かな河添いの生活から切り離《はな》されてしまうのだと淋しかった。千穂子はたまらなくなって裏口へ出て行った。半晴半曇の柔《やわらか》い晩春の昼の陽が河の上に光りを反射させている。水ぎわに降りて行った。もう、追いつめられてしまって、どうにもならない気持ちだった。「死ぬッ」千穂子は独りごとを云った。死ねもしないくせに、こころがそんな事を云うのだ。肉体は死なないと云う自信がありながら、弱まった心だけは、駄々をこねているみたいに、「死ぬッ」と叫《さけ》んでいる。
 四囲《あたり》は仄々と明るくて、どこの畑の麦も青々とのびていた。
 苔《こけ》でぬるぬるした板橋の上に立って、千穂子は流れてゆく水の上を見つめた。藁屑《わらくず》が流れてゆく。いつ見ても水の上は飽《あ》きなかった。この江戸《えど》川の流れはどこからこんなに水をたたえて漫々《まんまん》と流れているのだろうと思うのだ。――薄青い色の水が、こまかな小波《さざなみ》をたてて、ちゃぷちゃぷと岸の泥《どろ》をひたしている。広い水の上に、尾《お》の青い鳥が流れを叩くようにすれすれに飛び交っていた。後の堤の上を、自転車が一台走って行った。千穂子はさっきの、耳のない男の後姿をふっと思い出している。
 どうしても、死ぬ
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