自転車が二台あったのを、与平は自分のを売って金に替《か》えて、千穂子に持たせた。土地もない小百姓だったので、現金も案外持ってはいなかったし、与平にとっては、自分の貯《たくわ》えの中から、お産の金を出すと云う事は、隆吉に顔むけならない気持ちで、自分の自転車は盗《ぬす》まれた事にすればよいと思っていたのだ。
女の子供が生れたと聞いても、与平は別にうれしくもなかった。隆吉の下に霜江《しもえ》と云う娘があったけれど、十一の時に肺炎《はいえん》で死なせてしまった。いま生きていれば、二十三の娘ざかりである。
与平は仄々《ほのぼの》といい気持ちに酔って来た。やがて隆吉が戻って来るという事が少しも不安でなくなり、慰めでさえあるような気がした。早く逢いたいと思った。ラジオで聞く、リバテイ型という船に乗っている、兵隊姿の隆吉のおもかげが浮んで来た。千穂子との、狂った生活も、いまではすっかり落ちつくところへ落ちついている……。だが、何事もひしかくしにして済まされるものではあるまいと思っていた。そう思って来ると、与平はずしんと水底に落ちこむような孤独《こどく》な気持ちになって来た。酒のせいか、さっきほど、思いつめた気持ちにはなれなかったが、もう少し、呼んでくれる千穂子の声がしなかったら、あの風の中に、河へはいったまま与平はそのまま網と共に、自分も流される気でいたのだ。
水の中へ少しずつはいってゆくと、寒さもかえって判らなかったし、水の上は菱波立っていながら、水の底は森々とゆるく流れてなまぬるかった。くいなのような鳥の声が、ぎゃあと遠くに聞えているのも耳についていた。与平は一歩ずつゆるく川底にはいってゆきながら、眼をすえて水の上を眺《なが》めていた。石油色のすさびた水の色が、黄昏のなかに少しずつ色を暗く染めていった。水しぶきが冷たかった。そのくせ、河明りの反射が、まるで秋のようにさえざえしていた。
「どの位、金をつけりゃいいのだえ?」
与平が引っこんだ眼をぎょろりと光らせた。さて、いくらつけたらよいかと問われて、千穂子は、このごろの物価高の相場を吊《つ》りあわせる金銭の高が云えなかった。こうした不幸な子供の貰い手には、金が目当てで、筋のよい子なら、一万円もつけるのもあるだろうけれど、普通《ふつう》に云っても、千円や、二千円はつけなければならないのだ。
「新聞に出してもらったか?」
「
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