と、汚れたコップを出して壁ぎはの新しい荷箱の上に置いた。「お前さん、旦那は何してるンだい?」男はさう云つて、鮭を半分手でむしつて、りよの飯の上に差し出した。りよはとまどひしながら、有難く鮭を貰つた。「主人はシベリアにゐるんですけど、まだ、戻つて来ませんので、こンな事でもしなくちや食べてゆけないンですわ」男は吃驚したやうに顔を挙げて、「ほう、旦那はシベリアのどこにゐるンだね?」と訊いた。

 バイカルのスウチンと云ふところから、音信があつて、秋がすぎ、また今年の冬をやつと越した。りよは、毎朝眼が覚めて気が滅入ることも習慣になつてしまつてゐる。あまりに距離がありすぎるために、何の実感もないのだけれども、もう、その実感のないと云ふ事にもいまでは慣れて来てゐた。異国の丘と云ふ歌が流行してゐると云ふので、留吉に歌つて貰つたが、その歌を聴いてゐるうちに、りよは侘しくなつて来るのだ。自分の周囲にだけは、まだ、戦争気分が残つてゐるやうに思へた。遠ざかつて行く記憶のもや[#「もや」に傍点]の中に、自分のところだけが、平和な色あひから取り残されてゐるやうなのだ。神様なンてあるものぢやないわ。りよは口癖のや
前へ 次へ
全25ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング