けれども、鶴石の小舎には、満足に腰掛もないのでしみじみと落ちつくといふわけにもゆかない。
 りよは鶴石に見られないやうに、買物袋の中の財布をしらべてみた。七百円ばかりの金があつたので、これで、どこか雨宿りさせてくれる宿屋のやうなところはないものかと思つた。「どこか、宿屋みたいなところはないでせうか?」宿屋はないかと云はれて、鶴石は妙な顔をしてゐた。りよは、遠慮しないで、自分の家のことを正直に話した。「だから、私、このまゝで帰りたくないンですの。映画も見て、小さい旅館でもあつたら、そこで、休んで、おそばでも取つて貰つて、愉しくさよならしたいンですけど……ぜいたくかしらね」鶴石も同じやうな事を考へてゐたと見えて、自分の上着をぬぐと、それを留吉の頭からかぶせて、りよと雨の中へ出て行き、近くの映画館の軒下へ走り込んだ。――映画は椅子もなく立つて見なければならなかつたので、人いきれと立つてゐるのでへとへとになり、留吉はいつか鶴石の背中でぐつすり眠つてしまつてゐた。早く旅館へ行つた方がいいと云ふので、一時間位して、映画館を出ると篠つく雨の中を旅館を探して歩いた。芭蕉の葉を叩くやうな音で、雨は四囲に激しく鳴つてゐる。やつと、田原町の近くに小さい旅館を見つけた。
 節穴だらけのぎしぎしとなる廊下の突きあたりに狭い部屋があり、そこへりよ達は通された。べとついた柔い畳が、気持ちが悪かつた。
 りよは濡れたソックスをぬいだ。留吉は床の間の前にごろりと寝ころがして置いた。鶴石が汚れた座蒲団を留吉の枕にしてやつてゐる。樋もないのか、膨脹した水の音が、ばしやばしやと軒にあふれて滝になつてゐた。鶴石は黄いろくなつてゐるハンカチを出して、りよの髪の毛を拭いてやつた。自然なしぐさだつたので、りよも何気なくその好意に甘えた。雨音のなかに眇《すが》めるやうな幸福な思ひがりよの胸に走つてくる。なぜ愉しいのだらう……。長い間の閉ぢこめられた人間の孤独が、笛のやうにひゆうと鳴るやうな気がして来る。「こんな処で、食べ物を取つてくれるかな?」「さうね、私、訊いてくるわ……」りよは廊下へ出て茶を持つて来た洋服姿の女中に尋ねてみた。中華そばならとれると云ふので、それを二つ頼んだ。
 茶を飲みながら、二人は火のない箱火鉢を真中にして暫く向きあつてゐた。鶴石は足を投げ出して、留吉のそばに横になつた。りよは少しづつ昏くなりかけてゐる雨空を窓硝子越しに見てゐた。「おりよさんはいくつだね?」突然鶴石がこんな事を聞いた。りよは顔を鶴石の方へ向けてくすりと笑つた。「女の年は判らないよ。二十六七かね?」「もう、お婆さんですよ。三十です」「ほう、自分より一つ上だ……」「まア! 若いのねえ、私、鶴石さんは三十越してンだと思つたわ」りよは珍しさうに鶴石の顔をみつめた。鶴石は眉の濃い人のいゝ眼もとをちらと染めるやうに輝かせて、投げ出した自分の汚れ足をみてゐた。鶴石も靴下をぬいでゐる。
 雨は夜になつてもやまなかつた。
 遅くなつて、冷えた中華そばが二つ来たので、りよは留吉をゆり起して、眠がる留吉に汁を吸はせたりした。――二人は泊つて行くことに話をきめた。鶴石が帳場へ行つて、泊り賃を払つてきてくれた様子で、案外こざつぱりした夜具が三枚運ばれてきた。りよが蒲団を敷いた。部屋の中が蒲団でいつぱいになるやうな感じである。留吉のジャケツだけをぬがせて、厠へ用をたしに連れてゆき、蒲団の真中に寝かせた。「夫婦者だと思つてるね」「さうね。お気の毒さまですね……」りよは蒲団を見たせゐか、何となく胸さわぎがして、良人に済まないやうな気がしてゐる。さきの事は判らないけれども、雨が降るから、仕方なくこんな風になつたと思ひたかつたし、心で、そンな云ひわけをしてゐた。
 夜中になつて、りよがいゝ気持ちにうとうとしてゐると「おりよさんおりよさん」と、鶴石の呼ぶ声がした。りよがはつと枕から顔を挙げると、「おりよさん、そつちに行つてもいゝかい?」と鶴石がさゝやくやうに云つた。雨脚が少し弱まつて、軒の水音もたえだえにきこえる。「いけないわ……」「やつぱり、いけないかね?」「えゝ、困るわ……」鶴石は深い溜息をついた。「ねえ、鶴石さんは、私、聞かなかつたけど、奥さんはどうなすつて?」「いまゐないよ」「前はあつたの?」「あゝ」「その方、どうなすつて……」「兵隊から戻つたら、別の男と一緒に暮してゐたよ」「貴方、怒つたでせう?」「うん、まアね、やつぱり怒つたね。――だけど、行つちまつたものは仕方がないね……」「さうね、でも、よくあきらめられたわね……」鶴石はまた暫く黙つてゐた。「何か話しませうか?」「うん、別に話をする事もないよ。……あの、中華そばはまづかつたなア」「……えゝ、本当ね、一杯百円だなンて……」「君達も、部屋があるといゝね……」「えゝ
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