なつた。男は鶴石芳雄と云ふ名前だと云ふ事も知つた。鶴石は、りよの来訪をよろこび、甘いものを買つたりして待つてゐることもあつた。鶴石のところへ寄れる愉しみが出来たと同時に、少しづつ茶を買つてくれるなじみも出来て、このあたりを歩く商売も楽になつた。りよは、五日目には留吉を連れて四ツ木の鶴石の小舎へ出掛けて行つた。鶴石は留吉を見ると、とてもよろこんで、留吉を連れてどこかへ出掛けて行つたが、暫くしてまだ熱いカルメ焼きの大きいのを二つ留吉が持つて戻つて来た。「これ、坊やがふくらかしたンだな……」鶴石はさう云つて、留吉の頭をなでながら腰掛にかけさせた。りよは、鶴石に細君があるのかどうかと思ふやうになつてゐた。それは別に大した思ひかたではなかつたけれども、留吉も可愛がつてくれる鶴石を見て、ふつと、りよはさう思つたのである。りよは良人の事以外は三十歳になる今日まで考へた事もなかつたけれども、鶴石ののんびりした気心を知るやうになると、鶴石への自分の感情が、少しづつ妙な風に変つて来てゐるやうにも感じられた。りよはこの頃、なりふりも少しづつかまふやうになり、商売にも身を入れて歩くやうになつた。茶のほかに、静岡の親類から鯖や鰮のけづり節も送つて貰つて、それも一緒に売つてみたが、むしろ、茶の方より、けづり節の方が案外よくさばけて行く時もあつた。
 りよが鶴石のところへ行き出して、七八日たつた頃であつたらうか。まだ浅草を見た事がないと云ふ、りよと留吉を案内して、鶴石が一日休みがあるので、二人を連れて行つてやらうと云ひ出した。桜には、まだ早かつたが、時間があつたら上野公園も歩いてみようと云ふので、約束の日に、りよは鶴石に教へられた通り、上野駅のなかの、旅行案内所の前に留吉と立つて待つてゐた。半晴半曇のどんよりした日であつたが、雨さへなければかへつておだやかな日である。十分位もして、鶴石がゆきたけのつまつた灰色の古ぼけた背広姿でやつて来た。
 りよは青い波模様の、着物地でつくつたワンピースに、これも綿入りの薄茶の背広の上着を着て、何となくおめかしをして留吉の手を引いてゐた。不断より若く見えたし、ひどく背の高い鶴石と並ぶと、りよは洋服のせゐか女学生のやうに背がひくく見えた。
「雨が降らなきやいゝがなあア……」鶴石は人ごみの中を、気軽に留吉を抱きあげて歩いた。りよは大きな買物袋をさげて、それにパンや、のり巻きや、夏みかんを入れてさげてゐた。地下鉄で浅草の終点まで行き、松屋の横から二天門の方へ歩いて、仲店の中へはいつて行つた。
 りよは、浅草と云ふところは、案外なきたい[#「きたい」に傍点]はづれな気がした。朱塗りの小さい御堂が、あの有名な浅草の観音様なのかとがつかりしてゐる。昔は見上げるやうに巨きいがらんだつたのだと、鶴石が説明してくれたけれども、少しも巨きかつたと云ふ実感が浮いて来ない。只、ぞろぞろと人の波である。この小さい朱塗りの御堂を囲んで人々がひしめきあつてゐる。トランペットやサキソオホンの物哀しい誘ふやうな音色が遠くでしてゐた。公園の広場の焼け跡の樹木は、芽をはらんだ梢を風に鳴らして、ざわざわと荒い風にあへいでゐる。
 古着市場のアーチを抜けると、食物屋のバラックが池のぐるりにぎつしり建つてゐた。油のこげつく匂ひや、関東煮の大鍋の湯気が四囲にこもつてゐた。留吉は箸の先に盛りあげた黄いろい綿菓子を鶴石に露店で買つて貰つて、しやぶりながら歩いてゐる。――かりそめのめぐりあひとは云へ、りよは十年も一緒に鶴石とゐるやうな気がして力丈夫だつた。少しも疲れなかつた。映画館やレヴィュー小舎が軒をつらねてゐる。アメリカ風な絵看板が、みんな唸つて迫つてくるやうな大きい建物の谷間を、三人はぶらぶら歩いた。「雨が降つてきたね」鶴石が片手をあげたので、りよも空へ顔をむけた。大粒の雨が降つてきた。折角の遊山も台なしだと思ひながら、りよ達はメリーと硝子行灯の出てゐる小さい喫茶店にはいつて行つた。思ひがけなく桜の造花が天井からさがつてゐるのが案外寒々しく見えた。紅茶を取つて、りよはのり巻きやパンを出して鶴石や留吉に食べさせてやつた。鶴石は煙草を吸はなかつたので食事も案外早く済んだが、雨は本格的になり、雨宿りの客もいつの間にかいつぱいたてこんできた。
「どうしませう? 随分な雨になりましたね……仲々あがりさうもないわ」「一寸待つて小降りになつたら送つてあげるよ」送つてあげると云ふのは、稲荷町のりよの家の事であらうかと思つた。りよの家へは送つて貰つたところで、鶴石を家へあげるわけにもゆかないのである。同郷の知りあひへ、部屋がみつかるまで腰かけにおいて貰つてゐるのだつた。寝る時は玄関の二畳にやすむので、自分の部屋といふものがない。りよは稲荷町よりも、四ツ木の鶴石のところへ行きたかつたのだ
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