、鶴石さんの近くにないかしら……私、鶴石さんのそばに引越したいわ……」「まづ、ないね。そりやア、あつたらすぐ話してやるさ。――おりよさんは偉いなア」「あら、どうして?」「偉いよ。女はみンなだらしがないつてわけでもねえンだな」りよが黙つた。一緒に抱きあつてみたい気がした。そして……。りよは鶴石に知れないやうに、少しづつ、ちぎつて捨てるやうな苦しい溜息をついた。腋の下が熱くなつて来た。家をゆすぶるやうにトラックが往来を走つて行く。「戦争つて奴は、人間を虫けらみたいにしちまつたね。大真面目で狂人みたいな事をやつてたンだからなア。自分は二等兵で終つたが、よく殴られたもンだよ。もう、二度なンか厭だなア……」「鶴石さん、お父さんやお母さんは……」「田舎にゐるよ」「田舎は、どこ?」「福岡だよ」「お姉さんは何してるの?」「おりよさんみてえに独りで、子供二人そだててる。ミシン一台持つて洋裁やつてるよ。亭主は華中で早く戦死したンだ……」鶴石は、少しばかり気が持ちなほつたのか、話声もおだやかになつた。
りよはかうした夜の明けてゆくのがをしまれてならない。鶴石があきらめてくれたのだと思ふと気の毒な気がした。まんざら始めから知らない人間なら、かうしたことも何でもないのかも知れない。鶴石は、りよの良人については一言も訊いてくれようとはしなかつた。
「あゝ、何だか眼がさえちやつて寝られねえなア……どうも、馴れねえ事はするもンぢやねえよ……」「あら、鶴石さん、貴方、遊びに行つた事はないの?」「そりやア、男だもの、あるさ。玄人ばかりが相手だ」「男は、いゝわねえ……」りよは、男はいゝわねと、つい口に出したが、さう云ふか云はないうちに、鶴石がさつと起きて来て、りよのそばへ重くのしかゝつて来た。蒲団の上からであつたので、りよは男の力いつぱいで押される情熱に任せてゐた。りよは黙つたまゝ暗闇の中に眼をみはつてゐる、鶴石の黒い頭がりよの頬の上に痛かつた。ぱあつと、瞼の裏に虹が開くやうな光が射した。りよの小鼻のあたりに鶴石の不器用な熱い唇が触れる。
「駄目か……」りよは蒲団の中で脚をつつぱつてゐた。ひどい耳鳴りがした。「いけないわ……私シベリアの事を考へるのよ」りよは思ひもかけない、悪い事を云つたやうな気がした。鶴石は変なかつかうで蒲団の上に重くのしかゝつたまゝぢいつとしてしまつた。頭を垂れて、神に平伏してゐるやうな森閑としたかつかうだつた。りよは一瞬、済まないやうな気がした。暫くして力いつぱいで鶴石の熱い首を抱いてやつた。
二日ほどして、りよは、留吉を連れていそいそと四ツ木の鶴石のところへ出掛けて行つた。何時もその時刻には、小舎の硝子戸のところに、鉢巻をして立つてゐてくれる鶴石が今日は見えなかつた。りよは不思議な気がして、留吉をさきに走らせてみた。「知らない人がゐるよツ」留吉がさう云つて走つて戻つた。りよは胸さわぎがした。入口のところへ行つて小舎の中をのぞくと、若い男が二人で、押入れの鶴石のベッドを片づけてゐるところである。「何だい、をばさん……」眼の小さい男が振り返つて尋ねた。「鶴石さんはいらつしやいますか?」「鶴さん、昨夜、死んぢやつたよツ」「まア!」りよは、まア! と云つたきり声も出なかつた。煤ぼけた神棚にお光《あか》りがあがつてゐるのも妙だと思つたけれども、まさか鶴石が死んだ為とは思はなかつた。
鶴石が、鉄材をのつけたトラックに乗つて、大宮からの帰り、何とかと云ふ橋の上から、トラックが河へまつさかさまに落ちて、運転手もろとも死んでしまつたのだと教へてくれた。今日、会社のものや、鶴石の姉が大宮で鶴石の死骸をだび[#「だび」に傍点]にふして、明日の朝は戻つて来ると云ふのである。りよは呆然としてしまつた。呆んやりして、二人の男の片づけ事を見てゐると、棚の上にりよが初めの日に買つて貰つた茶袋が二本並んでゐた。一本は半分ほどのところで袋が折り曲げてあつた。「をばさん、鶴さんとは知り合ひかい?」「えゝ、一寸知つてるもンですから……」「いゝ人間だつたがなア……何も大宮まで行く事はなかつたンだよ。つい、誘はれて昼過ぎから出掛けちやつたンだ。わざわざ復員して来て、馬鹿みちまつたと云ふもンだなア……」肥えた方が、山田五十鈴のヱハガキをはづして、ぷつとヱハガキの埃を口で吹いた。りよは呆んやりしてしまつた。七輪もやかん[#「やかん」に傍点]も長靴もそのまゝで、四囲は少しも変つてはゐない。黒板に眼がいくと、赤いチョークで、リヨどの、二時まで待つた、と下手な字で書いてあつた。りよは留吉の手を取つて、重いリュックをゆすぶりあげながら、板塀を曲つたが急にじいんと鼻の奥がしびれる程熱い涙があふれて来た。「をぢさん死んぢやつたの?」「うん……」「どこで死んだンだらう……」「河へはまつちやつたン
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