氣がした。根つからの山好きと見えて、二時頃、この雨中を押して、トロッコで小杉谷へ登るといふことなので、私達も同行させて貰ふことにする。小杉谷までは、トロッコで二時間あまりださうで、山の中はよほど寒いと聞いた。
屋久島は、營林署の仕事をさしおいては何も語れないほど、道も電氣も、營林署でつくつたものだと聞いた。徳川さんは佐賀の人であり、境田さんは宮崎の人で、根つからの屋久島の人ではないので、屋久島のくはしい話を聞くよすがもなかつた。籐椅子に腰をかけてゐても、風邪で、熱が三十七八度はある樣子で、私は非常に疲れてゐた。たまらなく眠くもあつた。昏々として、躯が沈みこみさうである。雨はねばつくほどの昏さで降りこめてゐる。
營林署の管轄になる土地は二萬ヘクタールに上るのださうで、すべて官有林で、こゝでは屋久杉が有名である。私は、何も印刷したものがないといふので、こゝでは、メモを出して、樹木の名前を寫させて貰つた。
すぎ、もみ、つが、ひのきがや、いぬがや、あかまつ、くろまつ、やくたねごよう、こなら、かしは、かしはなら、くぬぎきり、つるまんりよう。
ようらくつゝじ、いはがらみ、みやましぐれ、なゝかまど、羊齒類。
雨にあたつたせゐか、腕がちぎれるやうに痛い。額に手をふれると、かあつと熱い。雨はぴしやぴしやと硝子戸の外に音をたてて降つてゐる。徳川さんがトロッコの支度をしてくれるといふので、私達は一應宿へ戻り、山へ登る支度をする。ノーシンを二服のんでみる。古い藥とみえて、散藥は落雁のやうに舌に固まる。急に日沒が來たやうに、眼がくらみさうになつた。
身支度をして、階下の板の間へ降りてみた。行商の女が、鯖のなまり[#「なまり」に傍点]を賣りに來てゐた。片身二十圓だと言ふ。もの好きに、私も三本ばかり買つてみる。狹い石の段々のところで、十五六の男の子が、かけひ[#「かけひ」に傍点]の水のところで、鷄を料理してゐるのをも珍しく眺める。雨に濡れながら、男の子は器用な手つきで鷄を料理してゐた。
トロッコの支度はなかなか出來ないとみえて、私は待ちくたびれてしまつた。鹿兒島を隔たること九十七哩、東西六里、南北三里二十七町のこの山深い島に、私はいまぼんやり渡つて來たのだ。寒いせゐか、店先の火鉢に蠅がゴマを撒いたやうにぴつちりとまつてゐる。スケッチをするつもりだつたが、熱つぽくて何事にも興味がない。
やがて二時間ばかりして、やつと私達は、丘の上のトロッコの乘り場から、機關車のついたトロッコに乘つた。小杉谷まで行くには、どうしても山の中で一泊しなければならないといふので、途中の大忠岳まで行くことにした。私は機關車の運轉臺に乘せて貰つた。機關車は、トロッコを四輛ばかりつけてゐた。山への荷物が載つてゐる。斷崖の狹い道に敷いたレールの上を、ごうごうと機關車は音をたてて登つた。鬱蒼とした山肌は時々、眞紅な煉瓦色をしてゐた。ヘゴと言ふ、大きな羊齒の一種が繁つてゐた。つはぶき、鬼あざみ、山うどが眼につく。右手の川底の安房の町がだんだん小さく消えてゆく。吊橋も小指ほどに見える。トロッコは荷物と澤山の山行きの人達をのせて、斷崖の上を走つてゐる。雨が降つたりやんだりした。
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一切の強欲の軋轢の苦役から
放免せられてゐる山々
一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地
鋭利な知能を必要とはしない自然
老境にはいつた都會を見捨てゝ
柔い山ふところに登りつめる私
私はその樂しみの飽くことを知らない。
額に山の雨が降りかゝり冷してくれる
山の精力が細かな種子になつて降る
蔓どめ、ひこばえ、山うど、鬼あざみ
私は何でも觸つたものをつかむ。
トロッコで凱旋してゐる旅愁。
[#ここで字下げ終わり]
眺望は昏くなり、山の雨は時雨のやうに降りかゝる。睡魔がおそつて來る。機關車のなかはガソリン臭くなまあたゝかい。
[#ここから2字下げ]
灰色の雨 しぶく雨
降る雨 たゞ地に降りそゝぐ雨
ひとに酬いる雨の山道
何處からか都會の風説を傳へて降る雨
かつこう[#「かつこう」に傍点]が啼き
羊齒に光る銀色の雨
鋸型の山の彼方に昏く浮ぶ虹
哀しく心ゆすぶる雨。
[#ここで字下げ終わり]
一時間くらゐして、トロッコはやつと、大忠岳の峠へ着いた。軒のかたむいた山小舍の前でトロッコを降りる。山小舍には誰も住んでゐないのかと思つたら、安房の町で、後のトロッコに乘つた、子供づれの細君が、その山小舍の戸を開けてはいつた。私も雨やどりさせて貰ふ。女の人はまだ若い。すぐ、子供を降して爐に火を焚いてくれた。がらんとした板壁の暗い部屋である。まだ十日ばかり前に宮崎からこゝへ來たばかりで、御主人は石切りを仕事にしてゐる人ださうだ。子供は素朴な木裂に車をつけた玩具で遊んでゐる。
こゝで、一臺のトロッコを殘して貰つた。徳川さんは、紺のレインハットに、ゲートルに地下足袋のいでたちで、私の乘つてゐた座席へ轉《うつ》り、雨の中を私達の乘つて來た機關車は小板谷へ登つて行つた。小板谷へ行つてみたかつたが、寒さがきびしいと聞き、肺炎にでもなつては災難だと、そのまゝトロッコに乘つて山を降りることにした。疊一枚もない、狹いトロッコに、四人が肩を寄せて乘りあつた。若い山の人がトロッコを上手にあやつつてくれた。斷崖絶壁の山徑を、玉轉しのやうに、トロッコは轟々とすさまじい音をたてて降つて行つた。しのつくやうな雨のなかを、濡れながらトロッコは降つて行く。雨傘を一本持つて來てゐたので、それを差してふはふはと傘の柄につかまつてゐるかたちだつた。
昏くなつてから宿へ着く。
ランプの灯の下で火鉢を圍む。風呂をすゝめられるが、熱のためにとりやめ、べとべとした疊に横になる。表の間の税務官吏の部屋は酒宴でも始つたのか賑かである。夕食には、名物の薯燒酎をつけて貰つたが、臭いので誰も飮まなかつた。夜更けになつて、細引を流したやうな雨であつた。雨の中に家ごと沈みこみさうな氣がした。税務官吏は雨の中を、女の迎へで何處かへどやどやと出て行つたが、朝まで戻つて來なかつた。雨の音でなかなか寢つかれない。夜中になつて電氣がついた。しみじみと文明の燈火をみつめる。
朝、雨は降つてゐなかつたが、夕方のやうに昏い空あひであつた。
船着場のトラックの運送店で、バスを交渉して貰つた。まだ買つて十日ばかりになる、一度も使つたことのないバスがあると言ふのだ。安房から、尾《を》の間《あひだ》まで四里の道を、バスで行つてみる計畫をたてた。途中の橋が大分くさつてゐたし、道は田をこねかへしたやうだと聞いたが、勇氣を出して、バスで行くことにした。若い運轉手と、運送店の主人が乘り込んでくれた。幸なことに、空もかつと晴れて來た。乘客は私達三人。道が惡いせゐか、私達は彈き豆のやうに、始終シートから放り出されてゐる。途中で、麥生《むぎふ》へ行く、女づれの客を二人ひろつた。紺がすりを着た飮屋の女らしい。金齒をきらきら光らせて喋つてゐた。素足に下駄をはいてゐた。
左手に見える海は、相當の荒れ模樣で、海原に白波が忙しく走つてゐた。ところどころの麥畑も貧弱である。仁田鑛山の社宅を越して、割合平坦なところをバスは走つたが、すぐまたくさつた橋にかゝり、橋の下は、深い谷間になつてゐた。橋を渡るたびに膽を冷した。始めて、村道をバスが走るので、原の學校の子供達が、鷄群のやうに走つて、バスを追ひかけて來た。バスはのろいので、子供が何時までも走つてついて來た。運轉手に聞くと、トラックが通る度、子供は二里でも三里でも自動車にくつついて走つて來るのださうだ。子供はみな裸足だつた。
何處まで行つても、右手は峨々とした南畫風の山が連なり、高い山は千九百五六十米もあるのださうだ。標高も七百米の小杉谷斫伐所附近では、年平均氣温が十六度に下り、十二月降雪を見、翌年の三月まで、積雪してゐるといふことである。高山が連つてゐるせゐか、一日中に、晴曇雨が交※[#二の字点、1−2−22]來るところである。バスでのろのろ走つてゐても、時々雨がばらつき、風が吹いた。颱風の通路にあるこの屋久島は、一年中豪雨に見舞はれるのだが、村の財政が窮乏のため、治水對策ははかばかしく運んではゐない。五月の飛魚と、甘藷と、甘蔗、それに林業くらゐが、この島の財政である。
麥生の部落で、二人の乘客は降りて行つた。
四里あまりのところを、二時間くらゐもかゝつて、やつと、お晝頃、尾の間の部落へバスは着いた。下屋久の村役場へ行き、こゝで、案内して貰つて、私は黒砂糖を製造するところへ行つてみた。珍しく陽がきらきらと射してゐるので、かなり暖い。或る路地の奧ではバナナの實つたところもあつた。ところどころに噴井戸のやうな石疊をきづいた井戸があり、五六人の手で圍むやうなあこ[#「あこ」に傍点]の樹の大樹が青々と繁つてゐた。葉をむしると、柔く柿の葉のやうなかたちをしてゐた。このあたりまで來るとひげを垂れたがじまる[#「がじまる」に傍点]の大樹もかなり多い。蜜蜂の箱を並べたやうな墓地を珍しく眺めた。
萱葺きの小舍がけのなかで、甘蔗を砂糖に煮てゐるところへ出た。竹の莖のやうな甘蔗をモオタアのかゝつた絞り機械で、汁を絞り、それを煮て、白いにがりで[#「にがりで」に傍点]固めると、丁度かるめら[#「かるめら」に傍点]のやうな色をした砂糖が流し箱へうつされる。原始的な、素朴そのものの砂糖製法であつた。村の人達が集り、相寄つて黒砂糖をつくつてゐるのだが、この素朴な砂糖も、一斤について、十八圓の消費税がかゝり、その上にまた所得の税金がかゝるのだと、村の人はこぼしてゐた。
芭蕉の葉に、一塊の黒砂糖を包んで貰つた。終戰直後は、この砂糖の買ひ出しに、屋久島あたりも賑つたやうである。甘いものに興味のない私は、芭蕉の葉に包んだ砂糖をもてあましてゐた。砂糖はこげ臭い匂ひがした。鹿兒島の町の市場でも、百匁九十圓でこの黒砂糖を山のやうに賣り出してゐたが、菓子のかはりにするのだといふことであつた。鹿兒島の江戸屋といふ喫茶店で、この黒砂糖を入れたコーヒーを飮んだが、苦甘い砂糖水を飮んでゐるやうであつた。
四圍は珍しく陽が輝き、靜寂である。四圍が森閑としてゐるせゐか、私はひどく疲れてゐるのを感じた。麥束を背に負つた、裸足の娘に行きあつた。女のよく働くところである。山々は硯を突き立てたやうに、部落の上にそゝり立つてゐる。陽の工合で、赤く見えたり、紫色に見えたりした。私達は、その山にみとれてゐた。案内の人は、もつちよむ山だと教へてくれた。花崗岩の巨峰は、日本のマッタホルンとも言はれると聞いた。
暫くして、私は海の方へ降りて行つてみた。かなり激しい斜面をなした狹い石道を、海ぎはへ下つて行つた。波が荒く、白い馬が海原を走つてゐるやうに見えた。私は、ふつと、人間に觸れない景色にはたへられないやうな淋しさを感じた。種子島に住んでゐる、朝日新聞の通信員の若い日高さんが、暫くかうした島に住んでゐると、狂ほしくなりますと言つた言葉を想ひ出してゐた。急に人戀しい氣持ちになつて來るのだ。こゝからいくらも離れてゐないところに、馬毛島や硫黄島があるのだけれど、俊寛的な孤獨な氣持ちが心を掠める。ごろごろした石ころのなかに、白く風化した珊瑚礁が混つてゐた。花模樣の透し彫りのやうな白い石である。――屋久島のどこかの學校では、PTAが、砂糖の密貿易をして、學校を建てた話も聞いたが、宮の浦あたりには、時々琉球や大島あたりから、船がはいつて來る樣子である。
嶮岨な山壁を見てゐると、何事もない、人跡絶えた島にも見える。千年近い屋久杉があの山中に亭々とそびえてゐるのだ。海沿ひは年中温暖な土地と見えて、どの樹木も夫婦木のやうに、根元から二本に分れて大きくなつたものが多い。松は本土のやうにひねくれた枝ぶりを持たない。みな空へむかつて、箒のやうに繁つてゐる。村の娘達は、すれちがふたびに、旅人の私達に、丁寧にあいさつをして通り過ぎて行つた。
尾《を》の間《あひだ》には温泉もあると聞いた。
屋久島では、砂糖が
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