とだわ‥‥」
「そんなことを云ふと、うんとスピードを出しますよ」
「厭よ」
 不意に徹男の左腕をたか子が兩手でつかむやうにすると、自動車はぎいと音をたてて小徑で止つてしまひ、徹男の厚い胸がたか子の肩の上へかぶさつて來た。
 二人が眼をよせると、雨の音と、自動車のエンヂンの音だけが、部屋の中よりも靜かにきこえて來る。たか子は胸がなしくなつて涙が溢れてゐた。
「泣いたりしちやいけない‥‥」
「‥‥‥‥」
「歸りませう‥‥」
 徹男は、一寸、たか子の脣に小指を持つて行つただけで、接吻もしなかつた。
 たか子は默りこくつてゐた。徹男も默つたなりでハンドルを握つてゐる。別莊へ歸り着いた時は、もう黄昏頃で、雨はますますひどくなつてゐた。女中は爐の火を焚いて、一人で唄ひながら厨で川魚を燒いてゐた。
 ポーチの處で、徹男がさよならを云ふと、たか子は雨の中へ走り出て徹男を追つた。
「ねえ、いらつしてよ。このままお歸りになるンぢや厭よ‥‥」
「今夜はもうよします。結城さんがお歸りになつてからまたうかがひますよ‥‥」
「ねえ、お話したい事があるの、一寸でいいからいらつして頂戴!」
 大股に歩いて行く徹男を追
前へ 次へ
全22ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング