判らなくなつてしまつたよ。有耶無耶にして十年、このまゝでいつたら乞食の生活と大した変りはないね。生きながら冥府に旅をしてゐるも同じの生活だよ。だから呑気は呑気だ‥‥。人間、栄達、立身出世の野心がなければ、なかなか安気なものだ。毎日鞄をさげて出社して、夕べは茄子やトマトを買つて帰る。本は高いから買はないで、まア、朝の新聞の広告を、たンねんに、読んでゆくうちには眠くなつちまふ。眼が覚めるとまたまた鞄をさげて出社‥‥何のことはない、己れに逆ふものなしさ、氷屋のすだれの如き、さらさらした人生図だよ‥‥」
丁度焼野を越した向うを省線が走つてゐる。
眼の下の狭い空地には唐もろこしの籔。四畳半の二階、それでもこよなき天国だ。赤ちやけて芯のはみ出た畳だけれど、間代にはべらぼうな値段がついてゐる。破れ畳に寝るだけで、本を売りつくして、そのうち、本箱もこの畳に吸収されようとしてゐる一日一日、崩れてゆく部屋のかつかうが専造には妙で口惜しいのだ。貧弱な運命といふものが、眼にはみえないけれども、軒の風鈴のやうに風のまにまに涼やかに鳴つてゐる。
これで、五郎でもゐなければ、底なしに荒さんで行くのかも知れない
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