愛する人達
林芙美子

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ばうばうとした野原に立つて口笛をふいてみても
もう永遠に空想の娘らは来やしない。
なみだによごれためるとんのずぼんをはいて
私は日傭人のやうに歩いてゐる。
ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。
さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。
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 萩原朔太郎といふ詩人は、もうすでに此世にはないけれども、此様な詩が残つてゐる。専造は、大学のなかの、銀杏並木の下をゆつくりと歩きながら、この詩人の「宿命」といふ本の頁をめくつてゐた。
 約束の時間を十分も過ぎたが、五郎の姿はみえない。繁つた、銀杏の大樹はまるで緑のトンネル。枝々が両側からかぶりあつて、馥郁とした涼風をただよはせてゐる。
 この日頃、胃の腑[#「腑」は底本では「附」]の恰好なぞ、考へたこともないほど、専造は食事らしい食事はしてゐない。
 下宿代は滞り勝ち。――二三、友人にあたつてみた職業も、みんな向うから、閉め出しだと云ふ報告。その上、五郎という厄介な子供を抱へてゐては、宛然、もう水の上の捨て小舟。といつて、その二、三の友人すら、現在のやうな世の中では、自身の体のなりゆきに、肝胆を砕いてゐるのがせいいつぱいである。
「旦那!」
 専造はふつと身を引いた。
 ぴたつと汗臭い人間が寄り添つて来たからだ。
 休暇にはいつてゐる大学の構内はこの真昼間、あまり人通りもなく森閑としてゐる。
「旦那!」
「僕のことかい!」
「どうです? 煙草は要りませんかね?」
 あわてて胸の釦をしめた。眼の前に、にゆつと、オレンヂ色の「光」の箱が二つ。
 専造は赧くなつて「いくらなの?」と、尋ねてみる。
「拾三円」
「さア、一箱の金もないな」
「ぢやア、五本、どうです?」
 すでに、箱を開きかけてゐる。男の小指の爪が馬鹿に長い。頭は砂利禿げで並んでみるといやに背がひくい。
 ポケツトを探して、六円五十銭よれよれの札をあはせて出すと、可愛いチヨークのやうな光が五本、男はそのまま正門の方へ歩いてゆく。
 五郎は何を躊躇してゐるンだ。また時計を見る。時計の汚れた硝子に、銀杏の緑が滴つてゐる。
 あいつ、萎れきつて戻つて来るンぢやないかな。
 あゝ、生きる苦しみといふものは‥‥専造は、いつも、くづくづと鳴つてゐる胃の腑を、うるさい奴だと思つた。ふつと、立駐つた。
「専造さアん‥‥」
 人力車夫のやうな走りかたで、五郎が両の手を振り振り走つて来た。
「どうだ?」
「ゐたよ。いま帰つたとこだつて‥‥」
「さうか。何かくれた?」
「手紙をくれたよ」
 汚れたピケの帽子の下から、粗末なハトロンの封筒を出した。
 葡萄のやうな、明るい少年の眼が、つぶらに動く。封を切ると、拾円札が五枚出て来た。
「もう、その本、売らなくてもいいンだらう?」
「また、この次だ」
 当分、御教授はお休みにして下さい。手紙には簡単にかう書いてある。
「君は、藤崎さん、御病気ですと云つたかい?」
「あゝ、云つたさ。――奥へはいる時、あのひとも度々だから厭だねつて、云つてたよ」
「マザーの方か?」
「うん」
 愚や愚や、汝は弱き家庭教師也。専造は手紙を揉みくしやにしてポケツトへ入れた。
「浅草へ行つてみようか?」
「うん」
「歩けるかい?」
「大丈夫だよ‥‥」
 五郎はにやりと笑つて、片足を高くあげてみせた。専造は、煙草を一本出して唇に咥へた。だが、マツチがない。
「凄いンだねえ」
「いま、こゝで五本買つたんだよ」
「こんな処にも、煙草売り、ゐるの?」
「そりやアあるさ」
 満足に、ものは食べないけれども、二人の若さは少しも狙喪[#「狙喪」はママ]してはゐない。
「ブリヂイ・ウエル・サンクスだ‥‥僕達はまアまア上の部だよ」
「えゝなアに?」
 無慈悲な世の中とも思はれぬと、さて五十円を手にしてみれば、貧乏人にとつては、その場では兎に角大にこにこ、専造は、急に元気になつた。
 だが、この金額の中から、間代を少し入れて、浅草で何か食べるとすれば、五拾円といふ金は、うたかたの如き金銭で、剰し得るものは何もない。これは御供への饅頭の如きものだと、専造は憂欝になつた。
「こゝへ来た次手に、やつぱり、この本も売つてゆかう‥‥」
「どうして?」
「君は心配しなくてもいゝよ」
「だつて、兄ちやん、本はこの次と云つたぢやアないか」
 まづ、二人は正門を出て、軒並みに本屋の前を歩いた。うつさうとした、山奥の水流をおもはせるやうな、ラジオの音楽が、きらめく水の色を髣髴とさせる。
 五郎は、かなり歩きつかれて、頭の芯が痛くなつてきた
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