。それに暑くて、咽喉もかわいてゐる。
 とある、小さい書肆にはいつて、朔太郎の「宿命」を、なにがしかの金に替へた。全く、なにがしかの金額といふにふさはしい売り値で、専造は本を手離す時、胸がうづいた。
 貧しい学生から、たつた一冊の本すらもうばつてゆくこの世のあはれさを、見参して、専造は、いつか口癖になつてゐる、「都に、骸骨あえれ、犬を、猫を、むさぼり食ふはいつの日ぞ‥‥」と、妙な唄をくちずさんでゐる。
「専造さん」
「何だ」
「俺、眼がまひさうだなア‥‥」
「えツ?大丈夫か、おいツ!」
 専造はあわてて、五郎を抱くやうにして、書肆の横丁にある氷屋にはいつた。
「水を一杯下さいツ!」
 紺絣のうはつぱりを着たねえちやんが、なみなみと二つのコツプに水を持つて来てくれた。思ひがけない親切である。
 五郎は青い顔をして一息にその水を呑んだ。

 四時半には、もう起きて雨戸を開ける。
 南が吹いてゐる[#「南が吹いてゐる」はママ]ので、馬鹿に暑い。だが、四囲は晴れてゐる。
 ガスに火をつけると、只、ごうごうと臭い風が鳴つてゐるきり、ガス屋さんは、今朝も御倹約ね‥‥。定子は、仄明るい格子窓に、朱色のぶちのある古い手鏡を立てかけて髪を結ふ。
(五郎ちやんは、いまごろどうしてゐるかしら。藤崎さん可愛がつてくれてるかしら‥‥)
 東京は、人間の屑の、掃溜めのやうな処だと、坂田のおばあさんは云つてゐたけれども、定子は、結局、田舎よりも東京がいゝといふ信念を持つてゐた。束京といふ処も、田舎のひとの寄りあひでかたまつた処だから、上海のやうに自由でのんびりしてゐる。
 定子は、此家へ来た事を、一度も辛いと思つたことがない。夜になると、家の路地口を、酔つぱらひが歩いてゐたり、妙な家ではないかと、そつとのぞいていくひともあつて、一日ぢゆう賑やかな、この街が、定子には何となく面白い。「まだ茶は沸かないの?」
 寝床からをばさんの声。
「あのウ、まだ、ガスが出ないンです」
「定ちやんは鼻つんぼだから、よオく、ガスへ鼻をくつつけてごらんよ」
「鼻をくつつけたンです」
 何だか、ぶつくさ云つて、をばさんは黙つてしまつた。定子は、昨夜、洗つておいた洗濯物を、二階の物干に持つて行つた。物干は、四方八方、風の海、広い焼跡は、草ぼうぼうや、畑になつてゐるのや、鉄屑の山や、何も彼も、それはそれなりに、うねうねと下町をいつたい、渺茫たる広野原の遠見。そのなかを、沈んだ色のビルデイングや、煙の出ない煙筒の林立。
(何時もこの物干へ来ると、定子は何か歌ひたくなる。リンゴの唄や、雨のブルース、それから歌つてはいけない軍歌、峰子の歌ふ唱歌。)
 あわてて階下へ降りると、薄暗い台所はおそろしくガス臭い。すぐ火をつけて薬罐をかける。茶を淹れて、をばさんの寝てゐる枕もとへ持つてゆくと、
「八時半に薪の配給があるの、わかつているわね。一束、七円五十銭よ」
「えゝ、わかつてゐます」
「今朝はすゐとんでもつくるかね?」
「えゝさうしませう」
「ガスが出るやうだつたら、昼のパンもふかしておくといいわね」
「えゝ、わかつてゐます」
 ふくらし粉をつかへば、拾円で三日しかないといふので、ふくらし粉なしの、餅のやうに固いパン、これが、毎日のこと。――親仁さんの良吉は、二日ばかりの商用で、福島へ行つて留守である。
 六時になると、二階で雨戸を開く音がして、政子が起きる。
「昨夜、わたし、とても、こはい夢みたのよ。牛のおつぱいが、おてんたうさまから、ベロンとぶるさがつてるの‥‥。脚なンてない、とても大きい牛なのよ」
 梯子段の途中から、政子がこんなことを云ひながら降りて来た。よく眠つたせゐか、眼が澄んでゐる。内心、政子も、自分の眼の美しさは、充分自信があるのであらう。
 朝の食卓についたのが八時。四囲がのぼせたやうに暑くなりかけてゐる。
「いつたい、世間のひと、何を食べてるのかしら‥‥」
 定子が、ふつと、こんなことをいつた。
「力の及ぶ範囲で、やつてるンでせう‥‥」
 政子は、すゐとんがきらひなので、電気コンロに、フライパンをかけて、粉を焼いてゐる。
「定子ちやんは、昔のことで、何が一等なつかしい?」
「昔のこと、あら、そりやア、母さんのこと、どうして死ンだンだらうて、いつもさう思ふわ‥‥」
「いゝえ、お母さんのことぢやないの。住んでたところとか、食べものとかつていふのよ。たとへばさうね。新富の寿司だとか、下谷のポンチ軒のカツレツとか‥‥」
「いやだねえ、また、朝から食べものの話だよ。――早く、食事を済ませて、大久保へ行つて、話をきめて来なさい。日中は暑くなつて、また出にくくなるからさア」
 をばさんは、浴衣の袖を書生のやうに、肩にたくしあげて、長煙管で煙草を吸つてゐる。
「ねえ定子ちやん、上海の餃子もお
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