つたし、――だが、高くて手にあひませんでした。

 6信
 シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停るたび、片栗粉のやうにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですか、皆|毛皮裏《ツユウパア》の外套を着込んで、足にはラシャ地で製つた長靴をはいてゐます。
 ブリッヂの鉄の棒にでも、一寸手をふれれば痛い感じがします。長く握つてゐると手が凍りつくとボーイが教へてくれました。此度で一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰へた事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ?」さう云つて、ボーイが私のヤカンをさげて湯を貰つて来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋で四五人、大きな事を云ひながら飲むのです。勿論紅茶も時々は持つて行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでゐるやうでした。鰊くさい漁師が一人ゐて、ヤポンスキーの函館はよく知つてゐると云つて、日本を説明するのでせう。盛にゲイシャ、チブチブチブ……と云ふのです。そのチブチブが解らなかつたのですが、あとで笑つてしまひました。チブチブと云ふのはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ……と云つて見せると、さうだと云つて、又、皆に説明するのです。何の事はない信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません。――十八日の夜。オムスクと云ふ所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、此子供はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでゐました。ワ―リャと云ふ子です。此ワーリャは可愛かつたのですが、ワーリャの母親は、一々物を呉れ呉れと云つて嫌でした。私は、三日月と云ふ日本の安い眉墨を持つてゐたのですが、「お前はパリーへ行けば買へるんだから、それを呉れ」と云ふのです。外の者ならパリーにもあるでせうが、娘の頃から使ひつけてゐるもので、何としてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンドぢやないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」さう何度云ひ聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかゝつてはおそろしいと、半分引き破つて呉れてしまひました。
 日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、ロシヤでは、ホーウとか何とか、いゝ場合の意味らしい。――ワーリャはよたよた歩いてきて、私の頬へ唇をさしよせて来ます。――時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせゐか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と云ふ人種は、いつたいに音楽が好きなのでせう。トロイカと云ふ映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されてゐると云つても走つてゐる汽車の中です。やるせなげな唄を耳にします。窓外は、あの映画に出て来る馬橇が走つてゐます。此ゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のやうに扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集ります。皆の顔が生々して来ます。実際音楽が好きなのでせう。


 ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られてゐたと云ふ話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かつたので、大変楽でした。
 隣室のピエルミ氏は、毎日詩集のやうなものを読んでゐます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると云つたら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもつと面白い事が出来るのにとくやしがつてくれました。ところで、或時ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストランぢやないか」さう聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰ひに来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。
「なぜ、食堂で飯をあたへないのでせう」
 ピエルミ氏は、子供つぽく笑つて、わからないと云ひました。実さい、一二度の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らつては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと云つて、腹をおさへて悲しげにしてみせます。私は、もう苦味《にが》い葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のやうになつたパンと、林檎を持つて行かせて怒つた顔をしてみせました。私の食料品も、おほかたは人にやつてばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残つたきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ(大根のやうなのに人参少し)それに、うどん粉の酸つぱいのや(すゐとんに酢をかけたやうなもの)蕎麦の実に鶏の骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまふと、落胆してしまふのです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブル払ひました。毛布と云つても、一枚の
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング