その同室にゐるロスキーは旅行中一番深切でした。私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑はせるんだから、可愛がつてくれたのでせう。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光つた四十位の男と乗つてゐました。私此ピエルミで降りると云ふ青年がとても好きで、よく廊下の窓に立つては話をするのですけれど、何しろ雲つくやうな大男なのです。あまり背が高いので、話が遠くて、よくかゞんでもらつたのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思ふ程、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。
5信
十六日の夕方、ノボォーシビルスクと云ふところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでゐました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでせう。まるで呆んやりとして夢の続きばかりのやうでした。ノボォーシビルスクでは十五歳位の男の子が一人乗つて来ました。勿論隣室のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでせうが、来るとすぐ私の部屋にはいつて来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。長い事かゝつて聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のやうな事をしてゐて、それに一年振りで会ひに行くのだと云ふ事でした。
子供の母親の名前は、カピタリカーパと云ふ人ださうです。僕はピオニエールだよ、さう云つて元気に出て行きましたが、兎に角シベリアの三等列車は呑気で面白い。十七日、昼食の註文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと云つたところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード?」と覗きます。それに承知《ダア》とか、不承知《ニエット》とか答へればいゝんで、訳はないのです。大変昼が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、註文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しさうでした。窓に額をくつつけて、吹雪に折れさうな白樺のひよろひよろした林を見てゐると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄つてくれたのですが、ロシヤ人はどうしてかう唄が好きなのでせう。いつそ此人の奥さんになつて、ピエルミで降りてしまはうかなんぞやけくそな事を考へたのですが、何しろ言葉が分らないし、私とは二尺位も背丈が違ひ過ぎるやうな気がしましすし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫日数があるので、楽しみです。甘いつて、まあ……笑つて下さい。自分で何か考へて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これで一二等に乗つてゐる人達はどんな事をして暮らしてゐるのでせうか。
お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。此ミンスク氏の名は、ミンスクで下車するといふので、私はいつもミンスクと呼んで笑はせてゐました。(ミンスクはポーランドの国境に近い方)――まづ、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すゐとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位のものでせう。――悪口を云ふのではありませんよ。それがこゝでは三ルーブルです(約三円)。驚木桃の木山椒の木とは此事でせうか。思わず胸に何かこみあげて来るやうな気がしました。食べてゐる人達はと云へば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と云つても、ジャケツの糸がほぐれてゐるやうなのがおほかたなのですよ。――けつして労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでせう。こつちの百姓の女は、絵描きが着るやうなブルーズを着こんでゐます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒つぽい仕事位に思つてゐましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくつてゐました。
車窓から見た七日間のロシヤの女は、とてもハツラツと元気で、悪く云へば豚のやうになつてゐる女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタク事なのでせう。一二等の廊下で、呆んやり同志の働きを見て、爪の化粧をしてゐるロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。――林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、――まだ驚きましたのは、バイカルを過ぎた頃売りに来た、いなり寿司のやうな食料です。思はず雑誌をはふりつぱなしにして、「アジン!」と怒鳴りました。二個一ルーブルで買つて、肉を刻んだのでもはいつてゐるのだらうと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、此様なぜいたくな買物をした記憶を持つたのは初めてです。鶏の小さい丸焼きが五ルーブル位です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつたし、茹で玉子が欲しか
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング