報を打つてあげませうと云つて下すつて、一人旅には一番嬉しいことでした。こゝでも私は二等の寝台に買ひかへて、乗る事にしましたが。――大分番狂ひで仕方もないのですが、二三日ハルピンで様子を見てゐたと思へば良いと、腰を落ちつけて何気なく、窓硝子を見ると、何と頬の落ち込んでゐる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまひました。
ところで、荷物の事なのですけれども、小さいトランクを四つ持つより、大きいのを一ツと、手廻りの物を入れるスウツケースと、その方が利巧だと考へました。同室者は、ハイラルで降りる、ロシヤ人のお婆さんでした。髪の毛は真白でも帽子を被ると、赤いジャケツを着てゐますので、三十歳の若さに見えました。晩の九時頃が、命の瀬戸ぎはなのですが――この、ロシヤ婦人に大丈夫だと云はれて少しは落ちつきが出来ました。
3信
十四日です。
私は戦ひの声を幽かに聞きました。――空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つてゐましたが、やがて地鳴りのやうに変り、砧のやうにチョウチョウと云つた風な音になり、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々では、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます。
激しく扉を叩くと、私の前に寝てゐるロシヤの女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きつと、「女の部屋で怪しかないよ」とでも云つてくれるのでせう。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと云ふ真似をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでせう、ダアダアと云つて笑ひ出しました。私は此女と一緒に夕飯を食堂で食べました。何か御礼をしたい気持ちでいつぱいなんですが、思ひつきがなくて、――出発の前夜、銀座で買つた紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になつても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ!」と喜んでくれました。まるで子供のやうです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふのかと思ふと、このロシヤのお婆さんにもひどくしつくりと似合ひました。手真似で女学校の先生だと云つてゐましたが、勿論白系の方なのでせう。
ひわ色に白にぼたん色に紙風船のだんだらが、くるくる舞つて、何か清々した風景です、窓のカーテンは深くおろしたまゝです、ハイラルには朝十時頃着きました、もう再び会ふ事はないだらう、此深切なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれ
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