クララ
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かめ[#「かめ」に傍点]
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 むつは、何か村中が湧きかえるような事件を起してやりたくて寢ても覺めても色々なことを考えていました。窓に頬杖をついて山吹のしだれた枝を見ていると、山吹の長い枝がふわふわ風にゆれています。じっと見ているとだんだん面白くなって來ました。風は神樣に違いないと思い始めました。にんじゅつをつかって姿を見せないで、山吹の葉の下で鼠のようにチロチロ遊んでいるのだろうと思いました。むつは前よりも、もっと熱心に視つめました。羽根の生えた蟻のような蟲がぶうんと山吹の枝へ飛んで來て兩手でお祈りをしています。風の神樣はエス樣だろうと思いました。教會の牧師さんの家の下には、たくさんかめ[#「かめ」に傍点]がいけてあって、そのかめ[#「かめ」に傍点]の中へ油がたくさん貯えてあるそうだけれども、あの油が風の神樣ではないのだろうかと、むつはぼんやり羽蟲のお祈りを見ていました。しばらくすると羽蟲はまたどっかへぶうんと飛び去って行きましたが、山吹の長い枝の一つ一つに陽が強くあたって來て、草色の柔い葉っぱがひらひら雨に當り始めました。葉っぱはあの羽蟲に何か注射をされて、あんなに生きがえったのだろうと、むつは土間から庭へ降りて行って、よく陽のあたる山吹の枝を一つ一つ強くひっぱってみました。どんなにひっぱってもひらひら葉っぱが動いているし、むつの赤茶けた髮の毛まで右の頬へ風で吹きたおされて來ます。むつは風の子を兩手でぴしゃぴしゃ叩いてやりました。だが、風は眼には見えないので、すぐひばの垣根の上の方ヘ音をたてて逃げてゆきます。むつは空の上へ逃げて行った風を見ました。雲がたくさん飛んでいます。風の乘物は雲なのかも知れないと思いました。キップを大人のように買うのだろうかと思いました。むつは、身輕るな風のように飛びあがって雲へ乘りたくて仕方がありませんでした。雲へ乘って村のひとたちを驚かせてやりたくて仕方がありませんでした。首が痛くなるほどあおむいていると、ぐらぐらと後へたおれそうになります。何か世の中で一番おいしいものを食べたいものだと思いました。學校の先生の所にある栗まんじゅう飛んで來いと、むつは心で云いました。ふわふわ空を飛んで來るようです。むつはそれを兩手ですくって口の中へ押しこんでうまいうまいと云いましたが、生唾が出るばかりで、栗まんじゅうの姿が口のそばで消えてしまうのです。ああ、うちの母さんはなぜお金もうけが下手なのだろうと、むつは自分の母親はきっとエス樣に憎まれているのに違いないと思いました。朝早くから、むつの母親は方々の百姓仕事の手傳いに行きました。弟の太郎は臭い鼻汁ばかり出しているし、むつは、大人の口まねで「ええくそいまいましい。」と舌打ちするのでした。學校へは一里もあるので、むつはなんとかかとか云っては休んでばかりいました。むつは三年生です。先生は木内たねと云って、十八ばかりの若い先生でした。紫色のメリンスの袴をしていて袴が長いので、むつは先生の袴の裾をはぐって見て、木内先生から叱られたことがありました。むつは先生の袴の中が不思議で仕方がなかったのです。先生は短い着物だから袴をはくのではないかと思いました。運動場にいる先生の袴は、今のように圓く風でふくらんで、そのむらさきの袴の中から、いっぱい蝶々が出て來るような氣がしてなりませんでした。むつは、雲を見ていると、風は木内先生の袴の中にも住んでいるのかと考えたりしました。木内先生は神樣に違いないはずだのに、木内先生はむつ達がドタンバタンと開けひろげて入る臭い便所にも入って行きました。あんなにきれいな先生が、どうしてむつ達の入る便所へ入るのか判りませんでした。また、木内先生は、むつ達と一緒に晝御飯を食べるのでしたけれども、むつ達と同じように梅干がたびたびついているのです。むつは顏をあげて、木内先生の口もとをじっと視ているのです。あの梅干は金の梅干かも知れないと思いました。
 木内先生はオルガンを彈く事が上手であったし、男の先生たちから大變好かれていて、男の先生達は大掃除の日に、むつ達の掃除をしている運動場でこんなことを云っていました。
「ヴィナスだね。」
「ヴィナスとは何だね。」
「愛の神樣だよ。」
「處女なのか?」
「それは愛の神樣だもの判らないよ、處女じゃないかも知れないよ。」
「木内先生は處女だよ。」
「それはそうだろうね……。」
 むつは、木内先生を神樣だとききましたのでびっくりしました。
 組の子供たちに、木内先生は神樣だよと教えてやりました。子供達は、
「神樣と云うと八幡樣だね。」
「いゝや、いなり[#「いなり」に傍点]さんだよ。」
「木内先生
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