かと、むつは鍋の上へ顏を寄せ、はよ煮えはよ煮えと言いました。
「はよ煮え、はよ煮え、大きな眼玉、眼玉が二つ、はよ煮えはよ煮え。」
すると、二つの卵が、本當に閻魔樣の白眼のように見え始めて來るのです。湯がぽこんぽこんと煮えて來ると、卵もぽこんぽこんと鍋の底で運動を始めました。眞黒い鍋なので、運動ぶりがよく見えます。
「こわいぞ、こわいぞ……。」
本當にむつには怖くなって來ました。むつは着物の袖で鍋のつるをつかんで、土間へ降りましたが、手元が熱くなったので鍋のつるを遠くへほうり投げました。煮えたった湯は四圍へ散って、鷄の背にも湯がこぼれたのか、おそろしい騷ぎかたで、クククククククと鳴きたてて羽根で風を入れています。卵は土間に墜ちてうんこ[#「うんこ」に傍点]のような黄味を飛ばしました。むつは「熱い!」と云って、自分の裾をおさえましたが、右のふくらっぱぎに、みみずのような紅い筋が出來ました。やけどをしてしまったと思いました。横の川へ行って、水へ脚をつけましたがひりひりして痛くて仕方がないのです。卵をあのままにしておくと、叱られると、むつは、裾で脚を拭いて、土間へ入り、立ったまま卵の白味を指ですくっては食べました。卵と云うものはどうしてこんなにおいしいのだろうと、むつはつぶけた黄味を掌にどろりとしたたらせて、猫のようにそれをなめるのでした。口の中で四方八方から唾が舌の上へ寄ってくるようにうまいのです。
太郎はまだ寢ています。土間にこぼれた湯はすっかり土の肌に浸みてしまってもとの通りになりましたが、鍋はむつに投げられたのでつるがひどくゆがんでしまいました。むつは鍋をさげて横の川へ行き、石塊をひろってつる[#「つる」に傍点]をカンカン叩きましたが、つる[#「つる」に傍点]のゆがみかたはだんだんひどくなるばかりです。むつは脚が痛くて仕方がありませんでした。鍋をへっついの上へもどしておくと、遠くへ遊びに行って來ようと、學校とは反對の日曜學校の庭の方へ行ってみました。むつの家から半道はありましたが、むつは少しも疲れませんでした。日曜學校には櫻の木が三本しかありませんでした。その櫻の木はきたなく繁っていて、毛蟲がいっぱい卵からかえっていました。むつは毛蟲がきらいでしたので、櫻の木の下を一息で走り拔けると、ぞくぞくと身ぶるいしました。身ぶるいするのは、櫻の木の下を通る時だけ、毛蟲の魔物が、とりつくのだからだろうとむつは思いました。
日曜學校は十疊位の廣さしかない百姓家で、牧師さんは眉毛の長いお爺さんでした。いつも荒地に草花を造っていました。夾竹桃の小さい木も植わっていました。ダリアだの虞美人草だのジギタリスだの植わっていました。土地がやせているので花がみんな小さいのです。教會の先生は町へ行ったのかいませんでした。教會の裏は竹やぶになっていて、鷄小舍のこわれたのや、漬物桶のくさったのや、朽ちた材木などが散らかっていました。竹やぶの中にはしめった風がいっぱいこもっていました。遠くの櫻の木では、若い蝉の聲がジイときこえます。竹やぶの中へ入って行くと、古い竹の皮がたくさんとげとげの草の中へ落ちていました。むつは竹の皮をひろって、町の牛肉屋へ買って貰おうかと思いました。いくらになるのか見當もつきませんでしたが、一錢玉が山のように來るような氣がしました。だけど、落ちている竹の皮は、みんなくさりかけていました。
「仕方がない。」
そう思って竹やぶを向うがわへ出て行きますと、朽ちてぼろぼろになった風呂桶がありました。むつはその風呂桶を見ると、自分の父親の亡くなった日を思い浮べました。その桶の中へ入ったら父親に逢えるような氣もしました。むつは草をむしって、くさった風呂桶の中へ敷き、やっと背のびをして、そのくさった風呂桶へ入りました。夕陽がちょうどその上に射しこんでいて、涼しい風が頭の上を吹いてゆきます。むつは神樣になるのは、誰にも知られないでこんな所でお祈りしていることだと思いました。
むつは手を合わせて、風呂桶の中で膝をたてましたが、これではまだ神樣にはなれないと誰か云うようなのです。で、むつは風呂桶から這い出すと、薄い材木をかついで來たり、わらなわを探して來たりして風呂桶のなかで自分の脚と腰をしばり、上へ、材木をならべてふたをしてしまいました。すき間からきれいな陽ざしがむつの體へ降りかかって來ます。むつは大變愉しい氣持ちでした。やがて、いろいろなものがお迎えに來るだろうと思いました。
むつは何時間かうとうとしたようです。ふと眼を覺しますと、波の音がざアと聞えて來ます。自分は船に乘っているのかと思いました。天井を見ても眞暗でした。ときどき體中に蟲の這いあがるようなかゆさを覺えました。――しばらくぼんやりしていましたが、四圍がしんしんとしているので、
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