王子の子どもが、いつか粉を持って来てくれると手紙をくれましたけれど、早く持って、来てくれるといいなと思いました。
きもを焼く匂いはとてもいい匂いで、好きです。これはおかあさんに早く元気になってもらうようにあげるのです。
七時ごろ、やっとパンが出来ました。
おかあさんは、熱があるので、パンはほしくないといって、うなぎのきもと、生卵を一つ食べました。
僕たちは茶の間で食事をしました。
パンはとてもおいしくて、一口食べると舌のなかにつばきがあつくなるような気がします。ふだん草のお汁と、小さいいわしの焼いたのがあって、とてもにぎやかな食事です。
おとうさんはごはんがすむと、「ああくたびれた」といって、
「静子、お前、あとかたづけをたのむよ」
とおっしゃいました。僕は静子に「あとかたづけしてくれよ」
というと、
「あら、兄さんはずるいわ、おとうさんの真似をしていけないわ。何でも助けあってやらなくちゃあずるいわ」
といいます。
僕は仕方がないから、皿をふいてやる役目をしました。
おかあさんがお水がほしいというので持って行き、
「おかあさん、気分はどうですか」
とたずねますと、
「とてもいいのよ。でも、まだ起きるのはたいぎだけど、みんなが元気だから寝ていても、みんなの声をきいていてたのしいのよ」
とおっしゃいました。
どこかで蛙がないています。おとうさんはもう、うとうとしています。
台所では静子が茶わんを洗いながら、
「ねえ、おとうさまって、とても台所はうまいなんてうそよ。だって、うなぎのきもを焼くのだって、とっときの炭をじゃんじゃんつかっているし、お醤油だってジャブジャブつかって、これぢゃ大変なことになってしまうわ。おかあさまは、とても大切になんでもおつかいになっているのに、パンだって、ほんとうは、今夜のは量が多すぎるのよ。わたしだまってたけど明日からわたしがしようと思うの。それに、おとうさまったらすぐつかれておしまいになるんだもの‥‥」
「でも、うまかったねえ」
「ええ、だって材料のありったけつかうんですもの、これぢゃあ誰だってできるわ」
静子は醤油ビンを出して、電気にすかしてみています。静子のやつ、けちだなあって思ったけれど、僕はだまって、醤油ビンをみていました。
赤い水がビンの中で光っていて、きれいです。もういくらもありませんでした。
17[#「17」は縦中横]
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わが庭に、鶏ついばめり、鶏小舎は
ひろびろとしてさびしそうなり
かわきたる洗たくものをとりいれて
夕やけ雲に口笛吹きぬ
八丈島たいふうありとラジオいう
雨戸をしめて雨の音きく
靴の底陽に干しながらオルガンの
ラジオをきけば平和なりけり
[#ここで字下げ終わり]
長い夏休みのあいだぢゅう、僕たちはおかあさんの看病をしました。おかあさんはぐんぐんよくなりました。僕は時時、和歌をつくりました。和歌なんてむずかしいと思っていたけれど、案外面白いので、おとうさんにみてもらいます。
おとうさんも僕と同じように、時時歌をつくります。おとうさんのはむずかしくてよく判りませんけれど、おとうさんは気持のいい声をたててろうどくします。
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吾子の声にぎやかにくるこの朝の
眼ざめのかなしみふき消す如く
[#ここで字下げ終わり]
おとうさんの歌です。
静子も歌をつくりたいといいますけれど、静子はなかなか出来ないとこぼしています。
はじめ、宇都宮からもらった鶏は二羽いたのですけれど、野良犬にとられてしまって、たった一羽になり、大きくつくった鶏小舎が、何だか広くなってさびしそうだったのを和歌にしました。
おとうさんは、和歌というものは、きどっては駄目だとおっしゃいました。なんでも思うままに正直に書くのがいいのだそうです。秋になったら、おとうさんがまたおとぎばなしをして下さるそうです。
おとうさんは、このごろ近所の商業学校の夜学へ数学をおしえに行かれるようになりました。おかあさんは、四五日前から起きられるようになりました。となりの本田さんのおばさんにもずいぶんお世話になったので、そのうち鶏でもつぶしたら、お礼に半分あげるのだとおとうさんがいっていましたけれど、僕は、何だか、自分の家でかっていた鶏を殺す気にはなれません。
鶏は何も知らないで、こっこ、こっこと庭に遊んでいます。この夏はあまり暑かったので卵も生みません。でも、今年は豊年がたの暑さだというので何だかぱあっと明るい気がします。おとうさんが、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとおっしゃったことが思いあたるようで、豊年で、お米がたくさん出来るといいなと思いました。
「うちのこっこちゃん、殺されるのいやね」
静子がさびしそうにして、とても気にしています。
「大丈夫だよ。僕たちでがんばれば、おとうさんだって殺すことをあきらめてしまうさ――」
「そうかしら、でも、鶏って、人間に食べられるために生れてるみたいでかわいそうね――何も知らないで、土をほじくってるのをみると哀れになるわ」
養鶏場みたいに、たくさんかえばそうでもないのだろうけれど、たった一羽だから哀れになるのかも知れません。
朝夕は、とても涼しくなりました。金井君は時時やって来ます。
今日もお昼から勉強に来ます。
僕は、去年の空襲のことを考えると、何だか、今年はのんびりしていて、あわてないで勉強が出来るのがうれしいです。
18[#「18」は縦中横]
金井君がおみやげに金魚を一ぴき買って来ました。とても尾ひれのひらいた、頭でっかちの金魚です。
「これはね、らんちゅうというんだよ。昔はとてもはやったものだって‥‥一びき何百円もするのがあったんだって」
頭の上にこぶが出ていて、女のスカートのようにひらいた尻尾が、水の中で、そっとひらいたりつぼんだり消えかけたりしています。
そのうち、金魚の歌をつくろうと思いました。
金井君はどうようみたいなものをつくります。
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もうじき秋が来る
空がそういつた
もうじき秋が来る
山の木がそういつた。
小雨が走っていいに来た
郵便屋さんがラシャ帽子をかぶった
夜がいいに来た
もうじき秋ですよ
[#ここで字下げ終わり]
これは金井君のどうよう。及川先生が読んで下さった。金井君は畑が好きだけに、とてものんびりしていて、時時妙なことを書いては及川先生に見せています。
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天井から豆がおちて来た
ねずみのイントクブッシかな
西どなりで水の音がする
[#ここで字下げ終わり]
これも金井君のうたったもの。僕はこんなのはつくれない。
「君、いまはね、天火のかまをつくってるんだよ。うまくパンが焼けそうなんだよ」
「何でもよく製造するんだなあ。金井製造会社だなあ」
僕がからかうと、金井君は、
「ああなんでもかたっぱしからつくるのさ、つくってる時、一番面白いよ。そのうち時計をつくろうかと思ってるんだぜ」
「へえ、時計、むずかしくないの」
「古くてどうにもならない時計があるからそれでぽつぽつ時計をつくろうと考えているのさ‥‥いいものつくってみせに来るよ」
僕のおとうさんも金井君の発明にはおどろいています。
勉強がすむと、さっそく金井君はらんちゅうのうたをつくりました。
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はでなおじさんだなァ
黙っているから変だよ君は
ぬれたきものをいつかわかすの
どこへでも水をもって旅行している
らんちゅうのおじさん
どこから来たの君は
だまっているから
みんなが君を笑っているよ。
[#ここで字下げ終わり]
僕はなかなか金井君みたいにはやく出来ません。
「ハヴァハヴァ」
と、金井君がせきたてると、なおさら出来ないのです。ただ頭の中をパンのように大きい金魚がうろうろしています。
今日は日曜でおとうさんはおうちです。
「金井君、これはどうだ、おじさんの歌はつまらないかな‥‥」
おとうさんが和歌をつくって持って来ました。
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水の上の水の光にらんちゅうは
きわまり燃ゆる四囲ながめぬ
[#ここで字下げ終わり]
「これはねえ、空襲最中のらんちゅうだよ」
そういって、おとうさんはおかしそうに笑いました。
家が焼けている最中に、らんちゅうなんか持って逃げる人はないでしょう。水がにえて来る時のらんちゅうはどんなに悲しかったでしょう。僕はそのころ、おかあさんとふるえながら、壕の中で、一面火の海になったのを見ていましたけれども、らんちゅうのことなんか気がつきませんでした。
金井君の家では、空地を借りて七百本もいもを植えたので、もうじき、いもほりをするから持って来てあげようといってくれます。人にとられるといけないから早ぼりをするのだといっていました。
19[#「19」は縦中横]
夜、要さんが遊びに来ました。要さんのおうちも暮しが大変だから、学校をやめてしまって、印刷所につとめに行くのだと相談に来たのだそうです。
要さんの姉さんも、いまはタイピストになって丸の内の会社につとめています、いまは、どこのおうちも大変な時なのだと思います。
僕も、中学なんか行くのはよそうと思ったりしますけれど、考えてみると、中学へ行くことをやめるのはいやだと思いました。僕たちが中学へ行くころは、何とかいい暮しになるといいと思います。
要さんが学校をやめるといいますと、おとうさんはふきげんな顔をしてだまっていました。
「だって、このままぢゃ仕方がないでしょう。僕は、年をとってから学校へ行ってもいいと思ってるんです‥‥」
「だけど、何とか出来ないかねえ。昔は苦学した人さえたくさんあったんだよ。まあ、昔といまとはちがうかもしれないけれど、何とか出来ないかね」
おとうさんは、岩にかじりついても学校だけは出た方がいいといってききません。
要さんもかんがえが変つたのか、はればれした顔つきで、
「じゃあ、もういっぺん、よく考えて何とかやってみます」
といいました。
僕だってそう思います。食物をどんなにつめてもいいから勉強だけは一生懸命しようと思いました。
学問を尊敬しない国はほろびてしまうと、おとうさんはよくいいます。
要さんはその晩、僕のうちにとまりました。久しぶりに家らしい家に来て気持がいいといっています。僕は要さんと一しょにやすみました。
「おうちで、君に学校をやめた方がいいっていわないのに、要君だけの考えでやめたりしては、第一姉さんに対してもすまない。学校だけは出ておいた方がいいね」
要さんは、はいはいと返事をしていました。
僕も、学校は好きです。第一、たくさんの友達と別れてしまうことなんて出来ません。疎開からもどって来た友達に、東京の空襲の話をしながら、友達っていいなと思いました。それから、一等なつかしいのは先生です。
翌る朝、早く要さんは元気でかえりました。
20[#「20」は縦中横]
僕は、金井君や繁野君たちと、ラビットクラブというのをつくりました。
ラビットというのは、兎さんのことだそうです。お月様のなかで、いつもお餅をついてるような、やさしい兎さんみたいな会がいいというので、おとうさんがつけて下さいました。
金井君は、工作が上手だから、すぐ木に兎をほって、マークをつくりました。繁野君というのは、こんどおとなりの本田さんのところへきた子どもで、おとうさんと、おかあさんと、ねえさんと四人で満州の奉天からもどって来たのです。
僕とおなじとしで、僕より小さいのですけれど、とても頭のいい子です。繁野君は、歌もつくるし、蝶蝶をとることがとても好きで、このあいだも、千葉へ行って、黒あげはだの、しじみ蝶なんかたくさんとって来ました。
木の間ちょうちょうゆるく吹かれゆく
繁野君のはいくです。木の間を飛んでいる蝶蝶は、人にとられるのもわからないで、のんびり風に吹かれていたという、気持なのだそうです。
ラビットクラ
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