よ」
「君一人で行くの‥‥」
「ああ、うちは東京なんだけど焼けてね、深谷の桶屋へ小僧に行ってたんだけど、つまらないから歩いてかえるんだよ。――もう歩くのつかれちゃった‥‥」
口をきくのもいやいやみたいに男の子はふかいためいきをつきました。金井君も僕もすっかり同情してしまいました。
「君、おなかすいてるんだろう‥‥」
金井君はそういって、ポケットから乾パンを出して男の子にやりました。男の子はびっくりしたような顔をしていましたが、急にあかい顔をして「ありがとう」といいました。陸橋みたいになっているところの、みはらしのいい小さい空地へ三人は歩きました。
「ここで少しやすんで行こう」
こんなときの金井君は、とても同情ぶかくて、何だか一生懸命なのです。
「君、電車へ乗るお金ないの」
金井君がたずねました。
「金なんかないよ」
男の子はまだ乾パンをたべません。僕は何も持っていないけれど、お金なら二円ほど持っているのでやってもいいと思いました。
せまい空地にはつつじが咲いていました。白と赤のつつじがほこりっぽく咲いています。男の子は石の台に腰をかけて、よごれた手拭で汗をふきました。
「君、どこでお家が焼けたの?」
「本所緑町、去年の三月九日だ」
「学校は‥‥」
「五年きりでやめたのさ。うちは貧乏だから‥‥おとうさんはサイパンで戦死したし、おかあさんと赤ん坊は本所の区役所の前で別れたきり、だから僕一人になったのさ‥‥」
「どうして桶屋なんかに行ったの」
「人が連れて行ったから」
「おばあさんのところへなぜ早く行かなかったの……」
「おばあさん[#「おばあさん」は底本では「あばあさん」]、いくども深谷に来てくれたんだけど、桶屋なんてつまらなくなって、おばあさんのところへ行くのさ」
「おばあさんは何をしてるの」
「あらいはりなんかしていたんだそうだけど、今はよその手伝いなんかに行ってるんだよ」
「家は知ってるの‥‥」
「焼ける前、二三度おかあさんと行ったことがある」
13[#「13」は縦中横]
僕たちは、その男の子を連れてお家へかえりました。竹なんか、またいつでも、もらいに行けると金井君がいいます。僕もそう思いました。
おとうさんは、竹ももたないで、あんまり早くかえった僕たちをみてびっくりしました。
しらない男の子まで連れているので、おとうさんは変な顔をしています。僕がその子と学習院のところで会った話をすると、おとうさんは、
「そりゃアいいことをした」
とおっしゃいました。
「君、いくつなの」
おとうさんがのこぎりを持ったままたずねました。
「十三です」
何となく元気がありません。おかあさんは、ちょうどおやつをつくりかけていたので、とむしパンをつくっていました。
男の子は、風呂敷の中から黒い米を出しました。
「これを煮たいのですが、なべをかして下さい」
といいます。
「そんなもの出さなくてもいいよ。いまパンがふけるからそれを食べて、それからおじさんが八王子に連れて行ってあげよう」
と、おとうさんがいいました。金井君は、この子の着ているシャツよりはましなのがあるから、お家でもらって来るといって走ってかえりました。
やがてむしパンが出来ました。大きいむしパンを手にして、その子は顔をあかくしていました。
「遠慮しないでお上り」
みんながすすめて、やっと、その子はむしパンを食べはじめました。桶屋さんはいい人たちだけれど、この子は桶をつくることはきらいなのだそうです。どんなに好きになりたいと思っても、あの桶の音をきいているのはがまんが出来ないのだそうです。おばあさんとそうだんをして、東京で給仕でもして、夜学に行って勉強したいのだそうです。
金井君がシャツを持って来ました。
おとうさんはちょうど八王子にたずねなければならない人があるからといって、その子といっしょに出かけて行かれました。
おかあさんはむしパンののこりを紙につつんでその子に持たせました。とてもよろこんで、その子は何度もおじぎをして行きました。僕は金井君と話しました。
「おとうさんやおかあさんがなくなって、あの子、かわいそうだね」
「うん、だけど、あの子はきっといい人になるね」
金井君はそういいました。
僕はおとうさんが、あの子について行って下さったのがとてもうれしかったのです。おとうさんはあの子と電車にのっていろいろなことを話しているでしょう。静子は時計ばかりみていて、おとうさんは何時ごろかえるかしらとそればかり気にしています。
おとうさんは夜おそくかえって来ました。僕たちがお寝床をしいている時に、
「かえったよ」といって玄関があきました。僕も静子も走って玄関に行きました。
おとうさんは竹の子だの菜っぱだの持ってかえりました。
「とてもわかりにくいところだったが、おばあさんという人がいて、よろこんでいたよ。竹の子を持って行ってくれって、これをよこしたのだよ」
小さい竹の子が三本、やぶけた新聞紙からのぞいています。あの子のおばあさんは、とてもあの子のことを心配していたのだそうです。おばあさんというのは、あの子のおかあさんの一番上のねえさんでほんとうはおばさんなのだそうです。おばさんのお家も大変まずしいお家だそうですけれど、みんないい人たちばかりだから、あの子はきっとしあわせになるだろうとおとうさんが話しました。茶の間で、おとうさんだけ、おそい夕ごはんをたべています。
菜っぱは、おとうさんのおしりあいでもらったのだそうです。おとうさんはいろいろな種ももらって来ていました。さやいんげんの種もありました。いままけば秋にはたべられるのだそうです。
あの子は、僕たちに会わなかったら、まだ歩いているころだったでしょう。おとうさんが連れて行って下さってうれしいと思いました。
桶屋さんの人たちも、あの子をとてもかわいがっていたのだそうです。
「人がらがいいのだよ。だから神さまはすててはおかないのだね。あの子のうまれつきがいいから、みんながあの子をかわいがるので、あの子も気が弱くなって、黙って出てきたのだろう。――おばあさんという人がそんなことをいっていたが、桶屋さんにはすぐあいさつに行きますといっていたよ」
おとうさんがおかあさんに話しています。
おとうさんは八王子の駅で、万年筆をおとしたのだそうですけれど、女学生みたいな人がひろってくれて、ほんとうにたすかったといいました。
その夜、おとうさんとねながら話しました。
「人間って何だろうね」
「人間って僕たちのことでしょう」
「そうだよ、人間って、いいことをするために生まれて来ているのだよ。世の中にめいわくをかけないで、少しでもいいことをして死ねたら、それがいちばんいい人間なんだ、よその人が困るやうなことをしてよろこぶこころを持っている人間は、人間でもいちばんよくないね、自然にすくすくと大きくなって、すなおなこころがぬけない人間になることが大切だね。あの子はきたないかっこうはしていたけれど、とてもいい子どもだね。桶屋さんのことをすこしもわるくはいわないし、誰もうらんでいるような気持を持っていない、いい子どもだったね」
僕は、ものをもらうたび、かおをあかくしていたあの子のかっこうをなつかしくおもいました。
明日は、ながいこと兵隊に行っておいでになった及川先生のかんげい会があるのです。
先生は僕たちが大きくなっているのをどんなに驚かれるでしょう。及川先生はいい先生です。一年生の時から三年生までうけもってもらった先生です。
僕は、八王子にかえったあの子のことや、復員して来られた及川先生のことを考えました。
「ずいぶん、いろいろな身の上の人があるんですね、おとうさん」
おとうさんは「そうだね」とおっしゃってしばらく天井をじっとにらんでいました。
「健坊も、もう、そろそろむずかしい本を読んでもいいね」
おとうさんがそういいます。
「どんな本ですか」
「そうだね、ホワイトファングというのはどうだろうね、犬の物語を書いた小説でね、山の中の狼が、だんだん人間の世の中に出て来て、おしまいにはおとなしい犬になるという物語なんだよ。これと同じもので、逆に、犬から、狼になってゆく、野性のよびごえというのもあるがね、おとうさんが探して来てあげようね」
僕は、動物の小説は大好きです。僕はおとうさんにはないしょで、このあいだ、金井君からかりて、偉大なる王という虎の小説を読みかけています。むずかしいけれど、とても面白い虎の生活が書いてあります。
僕は絵をみるのも好きです。音楽も好きです。人間っていいなと思います。好きな絵をみることも出来るし、好きな音楽をきくことも出来るから、動物と違うねと静子にいつか話しましたら、静子は、
「あら、動物だって、風の音楽をきくし、雲だの木だのみてよろこぶでしょう」
と、いいました。
動物は、人間みたいにぜいたくなものをほしがらないから、自然な山の中で、のんびりくらせて、戦争なんかないからいいでしょうというのです。
14[#「14」は縦中横]
朝、静子が走って来て、かわいらしい小さい鳥が、つるばらの枝にとまっているというので、そっと行ってみました。もずの子がビロードみたいなむくむくした羽根をしてきょとんとしています。
僕たちがそばへ行ってもおどろきません。
時時もずのおかあさんらしいのが、僕たちを心配そうにして飛んでいます。何だか食物を運んでいる様子です。
「ねえ、おうちで飼いましょうよ」
静子がさかんにほしがりますけれど、僕は飼うようになると、きっところすことになるからといいました。静子はおとうさんを呼んで来ました。
おとうさんもやっぱり僕と同じように、そっとしておく方がいいといいました。僕は夏になると、いろんな生物がいるようになるのが好きです。
おとうさんはおやすみが来たら、僕を釣に連れて行こうといいました。
僕はいつものように、会社へ行くおとうさんといっしょに家を出ます。静子はいつもぐずぐずしているからほっといて行きます。
涼しい風が吹いている朝の街をおとうさんと歩くのは好きです。
「及川先生がまた学校へもどって来られたんですよ」
「そうか、それはよかったねえ、先生はお元気かな‥‥」
「ええとても元気で、昨日は先生が英語の歌をうたってくれましたよ」
「ほう‥‥」
「それから、南方でとったのだっていろんな蝶蝶の標本も見せてくれたんですよ。及川先生は戦争がすむと蝶蝶ばかりつかまえて大切にしていたんですって」
おとうさんの影法師が僕たちの前をひょこひょこ歩いて行きます。長い影法師です。
「ああさっき、八王子の子どもから健坊に手紙が来ていたよ、おとうさんにも来ているよ」
お家のポストにはいっていた手紙を、そのままおとうさんがポケットへ入れて持って来られたのでしょう。大きい字で書いた手紙をおとうさんが下さいました。僕は目白の駅で会社に行くおとうさんと別れました。
学校へ行くと、金井君が走って来ました。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
僕はすぐ金井君に八王子の子どもの手紙をみせました。そしていっしょに手紙をひらいてみました。
はいけい。
長いことごぶさたしています。
たくさんお世話になっていて、何のお礼状も出しませんでお許し下さい。今日は書こう、今日は書こうと思いながら私は毎日せわしく暮しております。早く東京へ出てどこかへつとめたいのですが、東京へは転入出来ませんので、当分、近所のお百姓の手伝いをするより仕方がありません。私は百姓仕事はたいへん下手ですが、食糧がすくない折から、どんどん、どこでも手伝いに行くつもりでおります。桶屋ではたらくことを考えますと何でも出来ます。東京の青空市場へ行って野菜のあきないをしようかとおもっていますが、おばあさんがゆるしてくれません。私はお金をためて学校に行きたいのですが、おばあさんは、学校どころではないといいます。ゆうべ、うちのとなりで車人形というのをみせてもらいました。進駐
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