粒は鏡の前に立つた。
「ねえ、随分トゲトゲした顔になつちやつたわ。なまじ恋なぞすまじきものね、岡田さん、私、このごろ、ヘトヘトに自分に疲れつちまつた‥‥」
 岡田はもとより、百合子もサトミも、勝気でゲスなお粒の思ひがけない優しい言葉なので、とまどひしたやうに吃驚してしまつた。だがその驚きは妙にその場の空気をセンチメンタルにしてしまつて、ひどくしんみりとした雰囲気をかもし出してゐた。
「なまじ恋なぞすまじき事か、全くだ、大地震よりこはいからねえ」
 偶と、サトミは蓄音機の前に立つてレコードをめくつた。
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雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
[#ここで字下げ終わり]
 お粒のきらつた唄ではあつたが、それが此場合ひどくしつくりとして、ジジ‥‥とレコードは廻転してゐる。
「だからさ時の流れを待つばかりね」
 サトミが思ひ出したやうにこんな事を云ふと、お粒は鏡の中からニッコリして「さうでもしなくちや、やりきれないわ」とまるで少女のやうにすなほであつた。‥‥誰が悪いのでもない、みんな宿命なのだ、と、さう百合子もサトミの傍に歩んで行つて、香りの高い支那煙草
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